国友鉄砲鍛冶の歴史



 鉄砲は、天文12年(1543年)ポルトガルから種子島(たねがしま)に伝来しました。その後、根来(ねごろ)・堺(さかい)でも生産されていますが、国友では足利将軍(あしかがしょうぐん)からの製作の命によって生産がはじまりました。
(以下の枠内 「鉄砲の里 天領・国友」より)


 以来、国友鍛冶は信長、秀吉の保護(ほご)を受けました。

<長篠合戦と国友>



<鉄砲隊登場>



<秀吉・三成と国友>


 特に、国友の技術に目をつけた徳川家康は「天領(てんりょう)」として統治(とうち)しました。

<国友の繁栄>



<大坂の陣と国友鉄砲>



<鉄砲鍛冶の集落・国友村>


 一方、国友鍛冶は御用(ごよう)鍛冶として約束を固め、分業体制を導入(どうにゅう)して大量生産につとめました。こうして国友は、我国最大の鉄砲工業地として栄えていきました。


 江戸時代初期が国友鍛冶の最盛期でしたが、世の中が平和になると鉄砲の受注(じゅちゅう)は少なくなり鍛冶師たちは金工彫刻(きんこうちょうこく)や花火などに活路(かつろ)を見出していきました。
 金工彫刻は、臨川堂充昌(りんせんどうみつまさ)とその弟子たちによって技が磨(みが)かれ、目を見張る作品が産み出されました。いまも長浜の曳山(ひきやま)にその粋(すい)を見ることが出来ます。

    (このページにもどるときは、ブラウザの「もどる」をクリックしてください。)


 また、江戸時代後期には、東洋のエジソンとも呼ばれた科学者・国友藤兵衛一貫斎(いっかんさい)を輩出(はいしゅつ)しました。一貫斎は自作の望遠鏡で日本で初めて宇宙をのぞいた人で、国友は、日本の天文学(てんもんがく)発祥(はっしょう)の地とも言われています。

    (このページにもどるときは、ブラウザの「もどる」をクリックしてください。)

 この様に、創造性(そうぞうせい)と美意識(びいしき)に満ちた国友村の風土は、他にも儒学(じゅがく)者、医学者、文学者、茶道(さどう)家などを数多く生んでいます。

    (このページにもどるときは、ブラウザの「もどる」をクリックしてください。)



<明治維新後の国友鉄砲>



<鉄砲鍛冶の技術から自転車が>

※宮田自転車の写真を提供していただいている「日本自転車史研究会」の大津幸雄氏から下記のような貴重な情報をいただきました。ありがとうございます。
    江戸東京博物館に国友製(明治24年4月製造)のオリジナル自転車が展示されています。
    昭和63年9月15日付け産経新聞に掲載されました。
    この自転車(オーディナリー型、達磨型)は静岡県の旧家から発見されたとのことです。
    前輪の直径が1、05m、後輪、0、48m、金属製の泥除けの裏に「明治二拾四卯とし 四月上旬 国友作之」と銘が彫られています。

このページの一番上へ


国友鉄砲鍛冶のもくじへつぎのページへ

This page was last updated on 1998/10/13.
Authorized by Kunitomo teppo no sato Matchlock Museum.
Copyright (C) 1998. by Hideo Hirobe.