鉄砲の威力による戦術などの変化



<鉄砲の威力>

鉄砲の威力
 当時の戦国大名は、6匁(もんめ)筒(口径15.8ミリ)あるいは10匁筒(口径18.7ミリ)を多く使用したそうです。この銃は、最大射程(しゃてい)が1000メートルにも達するそうですが、有効(ゆうこう)射程はせいぜい100メートル前後で、命中精度になると人馬を標的として50メートルが限度で厚さ60ミリの洋材を貫通(かんつう)、30メートルの距離で鉄2枚胴具足(どうぐそく)を射貫(いぬ)いたといいます。

 左の写真は、10匁筒で、30メートルから射撃したと伝えられているものです。



<戦術の変化>
 多くの鉄砲が戦闘の場で使われるようになると、それまで主力部隊だった騎馬武者(きばむしゃ)は、鉄砲の標的(ひょうてき)になりやすいため、徐々に戦いの中心は、鉄砲隊をふくむ足軽隊による集団戦法に移っていきました。

 信長は、こうした戦術をいち早く取り入れました。天正3年(1575)の長篠(ながしの)合戦では、一斉射撃(いっせいしゃげき)を行ったといわれていますが、西洋での一斉射撃の記録は、それよりも300年後の1899年のポーア戦争になります。信長がいかに優れた軍事的才能を持っていたかがわかります。そのため、信長は、近代的歩兵(ほへい)戦術の開祖(かいそ)とまでいわれています。

 しかし、鉄砲は、手軽に買えるものではありませんでした。莫大(ばくだい)な軍事費が必要だったのです。
 この点、信長は、経済的にも豊かで、しかも高度な鉄砲の生産技術を持っていた畿内(きない)先進地域を勢力圏に入れました。なかでも、当時最も栄えていた商業都市の堺は、鉄砲製造の大産地だったばかりか、発射用火薬の原料である硝石(しょうせき)の輸入港でもありました。さらに、堺と肩を並べる鉄砲生産地の近江(おうみ)の国友村や、紀伊(きい)の根来(ねごろ)も、信長は勢力下に組み入れていったのです。

鉄砲隊の足軽兵



<武具の変化>

鉄砲足軽用具足
 現在残っている鉄砲足軽用具足(ぐそく)を見ると、前側だけの前がけ胴など簡単な形式のものが多く、重い鉄砲や付属用具を持ち運びするとき、動きやすいようになっています。
 また鉄砲隊には、多くの足軽兵が取り立てられましたが、武具もその数だけ必要であったので、大量生産しやすく、経費のかからないものになっていったようです。



<築城の変化>
 鉄砲が使用されはじめると、その攻撃に備えて、築城(ちくじょう)技術も変化しました。天文19年(1550)に足利義晴は京都東山慈照寺(銀閣寺)の大嶽(おおだけ)に山城を築きましたが、このとき早くも「鉄砲の用心」のために「尾さきをば三重に掘切(ほりきり)て、二重に壁を付(つけ)て、其(その)間に石を入」れるなどの築城の工夫がされたといいます。
 その後、織田・豊臣時代になってあらわれる平山城や平城の近代的な築城技術も、鉄砲の使用と関係があり、次のような変化があったといわれています。

  1. 堀が大規模(だいきぼ)となる。
  2. (るい)の表面に高い石垣が用いられるようになる。
  3. (やぐら)や塀(へい)の壁が分厚い塗込(ぬりごめ)造りになる。
  4. 堀や建物に狭間(はざま)ができ、城累(じょうるい)に曲折(きょくせつ)が多くなる。

 また、城の代表的な建物である天守閣(てんしゅかく)も、遠くを見晴らせ、鉄砲で相手をねらい打ちするために作られるようになったと考える人もいます。

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This page was last updated on 1998/10/13.
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