3.科学者一貫斎と天体望遠鏡



 科学者としての一貫斎の生涯(しょうがい)の中で、現在でも最も評価(ひょうか)を得ているのは、天体望遠鏡(てんたいぼうえんきょう)の製作と天体観測です。

<天体望遠鏡との出会い>

グレゴリー式反射望遠鏡 構造図
 江戸でオランダ製の天体望遠鏡をはじめて見た時、彼は、自分の知らない未知(みち)の世界におどろき心をうばわれたのです。彼が見た天体望遠鏡は、江戸に滞在(たいざい)していた文政3年(1820)、成瀬隼人正(はやとのかみ)宅であったといいます。この時、彼が見た望遠鏡は、イギリス製のグレゴリー式反射(はんしゃ)望遠鏡であったようです。一貫斎は、この望遠鏡の精巧(せいこう)さに驚(おどろ)くと共に、自らの手で望遠鏡を製作しようと心に決めました。



<天体望遠鏡製作に着手> 

テレスコッフ遠目鏡之図

自作の天体望遠鏡
(長浜城歴史博物館 蔵)
 しかし、その後10年余りは家業の鉄砲鍛冶が忙(いそが)しく、望遠鏡の製作には取りかかれませんでした。
 天保3年(1832)、一貫斎が55才のころ、ようやく長年の願いであった天体望遠鏡をつくりはじめました。

 外側の筒やレンズ筒などの真鍮(しんちゅう)部分は、長浜の小兵衛に注文し、一貫斎自身は望遠鏡の生命を左右する反射鏡とレンズの製作に力を入ました。しかし、書物も指導者(しどうしゃ)もない当時のことですから、すぐれた鉄砲鍛冶の一貫斎でも、苦心と失敗の連続でした。

 特に、反射鏡は、秘鏡(ひきょう)といわれた「神鏡(しんきょう)」を作った経験(けいけん)をもとに、数十回の実験をかさねました。銅(どう)と錫(すず)の合金の割合を変えながら、何回も実験をくり返しました。そして、銅(どう)約65%、錫(すず)約35%がもっとも適していることをつきとめたのです。

 こうしてできあがった反射鏡を磨(みが)きました。一貫斎は、「神に祈り、神の御名を心に念じつつ磨き上げた」といいます。

 また、レンズは、一貫斎の書き残した書物には、3枚(接眼レンズ1枚、対物レンズ2枚)が必要とありますが、実際は2枚製作され用いられました。一貫斎は、この製作にも苦心を重ねました。
 このレンズは、形や透明(とうめい)度がすばらしく、他のレンズと比べると水晶レンズに大変似ています。それで、水晶レンズが使われていると見られてきましたが、科学的な光学測定の結果、初期のものはソーダー系ガラス(酸化ナトリウムが混合されているガラス)が使われており、後に作成されたものはカリ系のガラス(酸化カリが混合されているガラス)が使われていることがわかりました。
 このように、レンズの材料にも工夫を重ねる一方、レンズの球面の仕上げや欠点の修正の研究にも力を注ぎました。

 こうして、一貫斎は、様々な困難を工夫で乗り越え、製作を始めてから1年3ヶ月後の天保4年(1833)10月、最初の望遠鏡を完成させ、月と木星の観測を行いました。

 一貫斎の望遠鏡は、反射鏡やレンズまで自ら製作したところに意味があり、その精度(せいど)も幕府天文方(てんもんがた)の間重新(はざまじゅうしん)が、オランダ製の2倍の倍率(ばいりつ)があると驚(おど)いたほどの出来ばえでした。



<天体観測と緻密な記録>

月面の観測記録(1836)
一貫斎が天体観測を開始したのは、最初の望遠鏡が完成した天保(てんぽう)4年(1833)で、10月11日から11月7日までの間、月と木星を観測した「テレスコップ望遠鏡月木星試(つきもくせいためし)」という記録が残っています。
 以後、月面観測図は天保7年まで残していますが、その観測図は、見えたことを実に忠実(ちゅうじつ)に記(しる)していて、少しのちがいもはり紙をして訂正(ていせい)しています。望遠鏡が改良(かいりょう)されるごとに記録(きろく)がくわしくなり正確(せいかく)さがましています。

 また、「月面には、山、谷、池、平地などがあり、雪が積(つ)もっているかに見える場所もある」と、月面のクレーターなどの凹凸や影(かげ)を言葉と図で説明(せつめい)もしています。その図は、驚(おどろ)くほど正確で、今日の天体望遠鏡で写した写真と比(くら)べても大差(たいさ)のないものです。

星之図(1836)
 また、彼は、太陽系の惑星(わくせい)の観測も行っています。土星の輪、木星のしま模様(大気の雲の層)やガリレオ衛星(えいせい)などの5つの衛星、金星が欠けている様子、も観測図に記録されおり、現在とほとんど変わらない内容となっています。



<世界の天文学史上貴重な太陽の黒点観測>
 一貫斎の観測の中で、特に有名なことは、太陽黒点(こくてん)の観測です。天保(てんぽう)6年(1835)1月6日から、同7年2月8日まで、午前8時と午後2時の2回太陽の観測を続け、総観測日数157日、総回数216回にもおよぶ連続観測を行っています。
 その観測の方法は、黒点の数、位置(いち)、大きさを正確(せいかく)にスケッチし、気づいたことをメモしていくもので、観測図「日月星業試留(わざためしどめ)」にまとめています。この記録の中で、次のように述べています。
  1. 黒点は、温度が低くて、火の燃えていないところである。
  2. 黒点には、黒のところのふちがうすく、にじんだように見える半影(はんえい)がある。
  3. 同じ黒点の形はまだ見ない。数の多い時も少ない時もある。
  4. 黒点は左の下から、右の上へ移っていき、10日前後でかくれる。

太陽の黒点連続観測記録(1835)
 これは、太陽の表面温度と黒点の関係、半影の発見、黒点の変化、太陽の自転など、近代天文学説(てんもんがくせつ)の実証(じっしょう)といえるものです。
 当時の人々は、「太陽の黒点は、地上の土気が天に上がって固まったものである」などと信じていました。これは、そうした考えをみごとにくつがえしたものでした。

 このような長期にわたる観測と正確な記録は、世界においても、その9年前(1826)ドイツのシュワーベがはじめた観測以外にはありません。また、一貫斎の記録とシュワーベの記録を比較すると常に一定の関係をもっていて、一貫斎の記録がいかに正確であったかがわかります。
 一貫斎の記録は、わが国はもちろん世界の天文学史上大切な文献(ぶんけん)とされています。



<国友村を救った望遠鏡>
 天保7年(1836)は、5、6月ごろより全国的に天候が不順(ふじゅん)で、米の作柄(さくがら)が大変悪くなりました。そのため、米の値段(ねだん)は大変高くなり、全国な大飢饉(だいききん)がおこりました。世にいう「天保の大飢饉(だいききん)」です。

 国友村でも、作柄が悪い上に、姉川が氾(はん)らんし、田畑が濁流(だくりゅう)にのまれ危機(きき)に見まわれました。もともと鍛冶職人が多く、農民の少ない村の食料事情は他の村以上でした。村人たちは、餓死(がし)寸前(すんぜん)にまで追い込まれたのです。

 この時、一貫斎は、片時(かたとき)も忘れることのなかった天体観測を断念(だんねん)し、愛用してきた天体望遠鏡を各地の大名に売り、国友村の人々を救(すく)いました。彼は、「天、遂(つい)に人の努力(どりょく)を無(む)にせず」と叫(さけ)び、苦労して作った望遠鏡が村人たちの役に立ったことを神仏(しんぶつ)のおかげと感謝(かんしゃ)したと伝えられています。



※現在、一貫斎の作成した天体望遠鏡について、本格的な学術調査が始まっています。
「ちょんまげ頭で見た天体」(上田市教育委員会 渡辺文雄氏)
第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 エピローグ
江戸の望遠鏡、輝き衰えずURL不明 (神戸市立青少年科学館のページです。)



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This page was last updated on 1999/03/04.
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