象眼細工(ぞうがんざいく)



 国友鉄砲鍛冶の中には、注文に応じて、銃身に金・銀・赤銅などの象眼(ぞうがん)をほどこす者がいました。この技術を元に、刀の鍔(つば)などに金工彫刻が行われるようになりました。

 国友九兵衛恭峯:作 白龍象眼火縄銃

国友藤五郎:作 30目玉大筒の象眼

 ところで、江戸時代後期、物資の集散地として栄えた長浜の町衆は、曳山(ひきやま)の豪華さを競い合いました。そうしたとき、国友の鉄砲鍛冶たちは、その彫金技術をかわれ、曳山の錺金具(かざりかなぐ:前柱の龍の彫金)の製作に当たりました。中には20数年もかけてようやく完成した作品もあったと伝えられています。
 
 刀の装飾や曳山の錺(かざり)金具以外にも、香炉(こうろ)などの種々の仏具、蔵の錠前(じょうまえ)などの作品が残されています。
 また、曳山の錺(かざり)金具の伝統は、長浜の職人に、浜壇(はまだん:長浜仏壇)の技法として受け継がれていきました。



金工師 国友充昌(臨川堂)

臨川堂充昌の旧宅
 国友充昌(みつまさ:1721〜1776)は、多くの国友鉄砲鍛冶の中でも、金工細工(きんこうざいく)の名手として知られています。号は臨川堂(りんせんどう)百棟。通称を丹治といいました。

 江戸へ修行に行き、彫刻の技を神田の名金工師・横谷宗與に学び、さらには、奈良彫の技も身につけました。充昌は、きびしい修行に耐え、ついには師をこえるほどの腕前になったといいます。

 明和5年(1768)、充昌45歳の時、10代将軍家治は、彼の名声を聞き、刀の目貫(めぬき)1対の製作と3匁玉筒(火縄銃)に竜門の図の彫刻を命じましたが、その出来映えの素晴らしさをほめ、白銀を与えたといいます。
 その後、充昌は、修行を終え国友村に帰り、金工師として身を立てましたが、彼の素晴らしい作品を求めて多くの注文があったといいます。
 また、充昌は、多くの弟子も育てました。享保以降、文化文政にかけて、彼に技を学んだ楽水堂、姉川堂、永川堂、藍水堂などの人たちが彫金師として活躍しました。

 その作品には、竹、虎、花鳥、人物などが写実的に彫られた鐔(つば)が多く、縁頭(ふちかしら)や目貫(めぬき)も残っています。地金には、鉄・赤銅・四分一・真鍮(しんちゅう)などを用いています。また、工法は、薄肉彫や高彫に象眼(ぞうがん)と色絵をほどこしていますが、片切彫や糸透などの技法が用いられた作品もあります。


富士見西行図鐔

竹図鐔

因幡白兎図鐔

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