花開いた様々な文化



 国友村は、江戸に鉄砲会所を設けていました。年寄りたちが交代で江戸詰(えどづ)めをして幕府との連絡や交渉にあたったり、鉄砲の受注や情報収集を図るためです。また、鉄砲を通じて、多くの村人が、江戸や他藩に出かけました。
 村人たちは、そうした機会に見聞を広め、新しい文化を国友村に伝えました。
 そのため、国友では、江戸末期の化政(かせい)期の頃から、能楽(のうがく)、茶道(さどう)、華道(かどう)、書道などの芸能が盛んで、多くの人材を輩出(はいしゅつ)しました。
 科学者としての国友一貫斎、彫金師(ちょうきんし)の臨川堂充昌(りんせんどうみつまさ)をはじめ、茶道(さどう)では小堀遠州(こぼりえんしゅう)流を再興(さいこう)した辻宗範(つじそうはん)、「古学弁疑(こがくべんぎ)」を著した儒学者の富永滄浪(とみながそうろう)、医者の辻村修や三角有裕(みすみありひろ)など、多くの学者や文人が活躍しました。 


能筆の茶人 辻 宗範(つじ そうはん)
辻宗範 能筆(のうひつ)の茶人、遠州流(えんしゅうりゅう)中興(ちゅうこう)の祖(そ)とも称(しょう)される辻宗範は、宝暦8年(1758)、国友に生まれました。幼時から漢学を学び、成人後は遠州(えんしゅう)流の奥義(おうぎ)を究(きわ)めました。
 文化6年(1809)、52歳のとき江戸に出て小堀遠州亡きあと衰退(すいたい)していた遠州流の中興に大きな役割を果たし、将軍家の茶道(さどう)の師範(しはん)もつとめました。彼の諸芸は、茶道(さどう)、華道(かどう)、書道、礼法、和歌、俳句、絵画、造園など多方面にわたり、多くの門人を育ててきました。
 彼の叔父(父の弟)丹治は、彫金師の臨川堂充昌(りんせんどうみつまさ)、姉ミワは、国友藤兵衛一貫斎(いっかんさい)の母。
 晩年は、尾張藩からの高禄(こうろく)での招(まね)きも断って、国友で真宗信仰(しんしゅうしんこう)の道に入り、天保11年(1840)83歳の生涯を閉じました。
(宗範屋敷跡の石碑より)


宗範屋敷跡

茶道具

絵画と歌



儒学者(じゅがくしゃ) 富永滄浪(とみながそうろう)
 儒学者・富永滄浪は、享保(きょほう)18年(1733)、国友村に生まれました。富永家は、代々「荘兵衛」を名乗る鉄砲鍛冶師で、「年寄脇(としよりわき)」の名門でした。。父は徳太夫。彼はその長子で、琵琶湖や姉川にちなんで滄浪(そうろう)と号しました。
 彼は、天才儒者(じゅしゃ)といわれ、「幼にして頴悟(てんご:すこぶる賢い)、長じて朴素(ぼんそ)、懸命に文籍(ぶんせき)にふけり寝食(しんしょく)を忘る。」「才識卓絶、良師益友の資無きも、自修深く、聖経賢傳(せいきょうけんでん)に通じ……」と伝えられています。
 彼には、多くの著書がありますが、最も大きな業績は、「国郡の名誉」とされている「古学弁疑(こがくべんぎ)」という書物をまとめあげたことです。この書物は、全文漢文ですが、儒学を「聖人の正軌(せいき)に従わしめん(孔子の教えの原点に立ち戻らん)」として書かれたといいます。この書物は、彼が亡くなってから70年後に世に出、その後の日本の儒学に影響を与えてきたと言われています。
 こうした素晴らしい才能を持った人でしたが、明和2年(1765)8月19日、病気のためわずか33歳で亡くなりました。

 その後、19世紀前半(文化文政年間から天保年間にかけて)、国友には、文化が花開きますが、その基礎を築いたのが、富永滄浪といわれています。



御典医(ごてんい) 三角有裕(みすみありひろ)

三角有裕の生家
 宮中(きゅうちゅう)に奉仕(ほうし)し、光格・仁孝・孝明三代天皇の御典医(ごてんい:侍医)として活躍し、従四位上行医博士兼典薬大允(てんやくだいじょう)となった紀伊守(きいのかみ)三角有裕(みすみありひろ)は、国友の、医業・辻村養玄の3男として、天明7年(1789)2月10日に生まれました。
 辻村家は、元々は優秀な鍛冶師で幕府秘庫の工人(徳川幕府の直轄地・国友を治めてきた十人衆のひとり)でした。
 こうした辻村家は、その後、大変裕福になり、医学や文芸で才能を伸ばす人がたくさん出ました。中でも、修(養玄)・篤(移仲)・有裕(礼助)の3兄弟は、有名です。
 有裕は、医学の勉強に励んでいましたが、光格天皇の侍医(じい)だった京都の医者・三角了敬(りょうけい)が、彼の才能を聞き、養子にしました。
 文政7年(1824)、47歳のとき、養父三角了敬が死去したため、召されて仁孝天皇の侍医となり、宮中に奉仕し典薬大允(てんやくだいじょう)の位につきました。その後、光格上皇の再度にわたるご病気を平癒(へいゆ)させています。
 国友町の日吉神社には、その年に彼が寄進(きしん)した燈籠(とうろう)があり、その銘に「嘉永五年壬子八月、典薬大允兼行医博士従四位上藤原有裕」と刻まれています。
 彼は、医学だけなく、詩文もよくしたといいます。
 安政2年(1855)4月26日に、69歳で亡くなりました。

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This page was last updated on 1998/10/10.
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