国友鉄砲の里資料館 |
歴史を動かした国友鉄砲 | ||
![]() 国友鉄砲の里資料館 |
国友町は、安土桃山時代から江戸末期にかけて、およそ300年もの間、鉄砲の製造で栄えた街です。言い伝えによると、美濃(みの)の国から刀剣工がやってきたとも、浅井分鍛冶部’(かじべ)の子孫がやって来て住んだところとも言われています。 日本に鉄砲が伝来したのは天文12年(1543)ですが、その翌年には早くも、室町将軍足利義晴の命令で、鉄砲(六匁玉)2挺を献上し、「能当」の銘(めい)を授かったのが国友鉄砲の始まりです。 元亀元年(1570)の姉川の合戦では、織田信長が鉄砲を武器として使いました。信長は、その後、天文18年(1549)には、500挺もの鉄砲を注文しました。また、長篠の戦い(1575)では、3500挺の鉄砲で武田方を圧倒しました。こうして、国友は、鉄砲の一大産地として栄えることになりました。最盛期には、70軒あまりの鍛冶屋と500人をこす職人がいたと言われています。 その後、長浜城主となった秀吉の配下に置かれ、江戸時代には、幕府の御用鉄砲師として召し抱えられました。 しかし、江戸時代、太平の世になると鉄砲の発注は大変減りました。そこで、国友では、鉄砲で磨いた技術を生かして、金工彫刻や花火などの平和な産業を興しました。 |
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![]() 館内展示の鉄砲 |
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![]() 館内展示の鉄砲 |
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![]() 大発明家、国友一貫斎 |
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![]() 大発明家 国友一貫斎の屋敷 |
安永7年(1778)国友で生まれました。腕の良い鉄砲鍛冶として活躍しただけでなく、数々の発明をしました。 主なものは、気砲(空気銃)、懐中筆(万年筆)、玉燈(照明器具)などですが、中でも、素晴らしい精度の天体望遠鏡作成と天体観測は世界の天文学史上貴重な記録となっています。 |
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![]() 一貫斎の天体望遠鏡 |
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