「国友鉄砲一番手柄(てがら)



 元亀(げんき)3年秋のことです。浅井長政は、織田信長の軍に囲(かこ)まれながらも小谷城に籠(こ)もって戦っていました。姉川合戦に敗れた後も、多くの部下をもち勢力(せいりょく)をはって、いつ終るともわからない戦いを続けていました。

 信長の部下であった秀吉は、この戦いを一日も早く終らせるため、浅井方についていた宮部(みやべ)城の城主宮部継潤(けいじゅん)に、信長の味方になることを勧(すす)めました。継潤は浅井方に勝つ見こみのないことをさとり、勧めにしたがって信長の味方になりました。継潤は信長の味方になったことを他の武将に知らせ、信長への忠誠(ちゅうせい)を示すために、姉川をはさんで2キロメートル南にある国友城を攻(せ)めることにしました。

 継潤は300人の部下をひきいて国友城に押し寄せました。かねてこのことを予期(よき)していた国友城では、これも同じく300人の軍勢で城を出て姉川の堤(つつみ)に出て防(ふせ)ぎました。戦いは姉川を舞台(ぶたい)にくりひろげられました。継潤は先頭に立って、命令(めいれい)しました。

「野村を討(う)ちとるのは今だ。ものども続け。遅(おく)れるなっ」
「ひきょう者の宮部勢。裏切(うらぎ)り者の継潤を生かして帰すな」

 国友方も槍(やり)をかざし刀をふりかぶって応戦(おうせん)します。3年前の姉川合戦の再現(さいげん)です。あちこちに組打ちが始まり、勝名のりの声がひびきます。大将同志、宮部潤継と野村兵庫頭(ひょうごのかみ)も、いつの間にか馬をひきよせて戦っています。しかし、継潤は有名(ゆうめい)な力持ちの武芸者(ぶげいしゃ)です。じりじりと兵庫頭を南へ押しつけていきます。兵庫頭は「ああ、俺(おれ)もここで継潤に討たれるか」と思ったその時です。「ズドーン」と一発の銃声(じゅうせい)がしました。はっとしてよく見ると、今まさに自分に向かって大刀(たち)をふり上げた継潤が、どしんと馬から落ちています。左のももからは真赤な血がふき出ていました。

 そこへ、鉄砲を片手にした一人の武士、富岡藤太郎(とみおかとうたろう)が、継潤の首を取ろうと駈(か)けよってきました。藤太郎は、国友の鉄砲(てっぽう)の名人でした。人々は鉄砲の力を知らないで、武士の数にもしていませんでしたが、藤太郎は「ここらで新しい武器(ぶき)の威力(いりょく)を見せてやろう」と火縄(ひなわ)に火をつけて獲物(えもの)をねらっていたのでした。この時銃声で、大将の一大事を知った継潤の部下がどっと助けに来たので、継潤の首は取れませんでしたが、宮部勢は一目散(いちもくさん)に退却(たいきゃく)して行きました。

 このことを伝え聞いた信長は、1丁の鉄砲が300人の兵士にも優(まさ)る威力(いりょく)を持っていることを知り、早速(さっそく)500丁の鉄砲を国友に注文しました。そして、その鉄砲の威力によって、天下統一(てんかとういつ)の望みをはたしました。 

 その後国友は、秀吉、三成、そして徳川幕府の保護(ほご)を受け、永く鉄砲鍛冶(てっぽうかじ)の村として栄(さか)えました。

(「長浜の伝承」長浜市教育委員会:編 参照)


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(最終更新日 : 1998/08/26)
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