2.鉄砲鍛冶としての一貫斎




一貫斎作の大筒(百目玉筒)
 文化8年(1811)の彦根事件は、当時の国友鉄砲鍛冶の様々な問題を浮(う)き彫(ぼ)りにしました。
 しかし、この事件の発端(ほったん)は、彦根藩が一貫斎に鉄砲を名指(なざ)しで注文したところにありました。このことからも、一貫斎が鉄砲鍛冶としていかに優れていたかがわかります。



<気砲(空気銃)の製作>

一貫斎作の気砲とポンプ

気砲のカラクリ

「気砲記」
一貫斎が鉄砲鍛冶として、製作したのは、火縄銃だけではありませんでした。
 一貫斎のオランダ科学についての知識のほとんどは、友人である大坂の眼科医山田大円より学んだものだそうです。一貫斎は、まだ江戸に出る前の文化11年(1814)、大円からオランダから伝わった風砲(ふうほう)の話を聞いて興味を持ち、その構造(こうぞう)を教わって、模型(もけい)の製作に成功していました。
 文政元年(1818)、江戸に出ていた一貫斎は、将軍のおかかえ医師として江戸へ出てきた大円から、将軍家に伝わるオランダの風砲の修理を頼まれ、1ヶ月あまりでこれを完成しました。
 この風砲は玩具(おもちゃ)で、連続して発射することができず、また弾丸の威力(いりょく)も弱く、武器といえるものではありませんでした。しかし、一貫斎は風砲の精巧(せいこう)さに感心し火薬を用いず空気の力で弾丸を発射できるという原理に深い興味を持ちました。火薬は、当時その製造法も十分ではなく、また、原料も多くはありませんでした。そこで彼は、この風砲の欠点を直し、威力を増すよう改良すれば実際に武器として使えるようにしたいと考えました。
 それからというもの、彼は、風砲の研究に打ち込み、わずか1年たらずで「早打気砲」の製作に成功しました。この気砲は、口径1.1cm、銃身75cm、全長140cmのもので、空気圧さくポンプと一対になっており、オランダ製のものより数十倍の威力があったといわれています。
 この気砲の製作費は、1挺35〜60両と高価なものでしたが、幕府や各藩からの注文が相次ぎました。また、彼の元には鉄砲製作を志して修行する人が多数集まりました。そこで、これらの人々のために、この気砲の構造と使用法を解説(かいせつ)した木版刷の「気砲記」を世に出しました。彼は、その後も改良を重ね、天保年間には、早打ち気砲20連発を作り出しました。



<火縄銃製作方法の公開>

「大小御鉄砲張立製作控」
 一貫斎の鉄砲鍛冶としての功績は、単に鉄砲の製作だけにとどまりませんでした。彼は、文政元年(1818)元老中・松平定信の依頼により、翌年(1819)「大小御鉄砲張立製作控(だいしょうおんてっぽうはりたてせいさくひかえ)」を著しました。
 当時、ロシアの千島侵略、イギリスの九州への不法入港と外国船による事件が相次ぎ、国を守る上での鉄砲の必要性がたかまっていました。
 定信は、外国船から国を守るため、鉄砲や大砲の配備を急ぐ必要があると考えていたため、鉄砲の製作法について、江戸にいた一貫斎へ問い合わせたのでした。
 一貫斎は、この書の中で、1匁玉筒から10貫目玉筒までの鉄砲生産の詳しい方法だけでなく、材料や使用する工具の種類まで書き表し、多くの職人に製作の技術を伝え、規格(きかく)を統一(とういつ)し大量生産ができるように図ったのです。
 今まで、鉄砲の製作は秘伝(ひでん)とされ、親子兄弟であっても、その方法を見せたり語ったりしないことになっていたので、この本を著したことは画期的(かっきてき)なことでした。



<砲術のマスター>
 一貫斎は、その父から砲術(ほうじゅつ)教育を受け、砲術を知っていなければ、よい鉄砲を製作することができないと考えていました。そこで、、一貫斎は若い頃から種子島(たねがしま)流・荻野(おぎの)流・星山(ほしやま)流・米山(よねやま)流などの砲術を学んでいます。また、文政10年(1827)には自得流砲術の免許皆伝(めんきょかいでん)を受けるほどでした。
 そのため、彼のもとには、鉄砲製作の技術修行のために弟子入りする者も多くいましたが、砲術を学ぶために弟子となる者もいたほどであったといいます。

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This page was last updated on 1998/10/10.
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