<江戸時代の国友鉄砲鍛冶>
戦国時代から始まった国友での鉄砲生産は、徳川幕府による大坂の陣に向けての大量注文によって、慶長(けいちょう)年間に最盛期をむかえました。大坂の陣があった元和元年(1615)の段階で、国友には73軒の鍛冶屋と500人にのぼる職人がいたといいます。鍛冶たちは、4人の年寄(としより)を中心に「惣鍛冶(そうかじ)」とか「仲間(なかま)」とか呼ばれる同業組合を作り、鉄砲生産を行いました。
<社会の安定と鍛冶仲間の対立>
しかし、江戸時代の中ごろになると、社会が安定し、財政難(ざいせいなん)の幕府からの鉄砲受注(じゅちゅう)も減りました。また、鉄や炭の価格も上がり、鉄砲鍛冶たちの暮らしは大変苦しくなり、田畑を売ったり、国友を離れる者もでてきました。
こうした中で、鍛冶仲間の組織に大きな問題が生まれてきました。それは、年寄の特権と、その他の年寄脇以下の鍛冶たちの権利の不公平さです。幕府からの受注量の10分の4までを年寄4人で引き受けるという体制が、この時代まで続いていたのです。幕府からの注文は減少し続けていたので、両者の対立はだんだんと激しくなっていきました。
<鉄砲鍛冶の衰退>
このような時、天明(てんめい)事件が起きました。これは、同5年(1785)年寄・善兵衛が、江戸から持ち帰ってくるはずの幕府から支給された鉄砲代金のうち200両をなくしてしまった事件です。鉄砲鍛冶たちは、この問題を幕府にうったえたため、江戸奉行(ぶぎょう)が取り調べることになりました。そこで、十数回にもおよぶ取り調べが行われましたが、善兵衛が牢死(ろうし)したため、真相(しんそう)はうやむやになってしまいました。
この事件は、鍛冶仲間を統率(とうそつ)してきた年寄の力が衰(おとろ)えてきたこと示すことになりました。
<一貫斎と彦根事件>
文化8年(1811)、一貫斎が34才の時、彦根藩(ひこねはん)から200匁目玉の大筒(おおづつ)の注文を受けて製作しました。これにより、彦根藩は、一貫斎に彦根藩御用掛(ごようがかり)を命じました。
しかし、一貫斎が他の年寄を差し置いて鉄砲の注文を受けたり御用掛を命じられたため、年寄たちは、そうしたことは認められないとして彦根藩へ訴えました。しかし、かえって彦根藩の怒(いか)りを買い、国友鍛冶の彦根藩領への立ち入りと、彦根藩から国友への鉄砲注文を一切禁止しました。
国友鍛冶では、原料の手配を彦根藩に頼む者が多く、また、他から注文を受けた鉄砲も彦根藩を通らないと持ち出せないので、仕事ができなくなりました。
やがて、この争いは幕府の江戸奉行所が取り調べることになりましたが、結局は年寄2人を処罰(しょばつ)することで終わりました。
その間、一貫斎は、文化13年、証人(しょうにん)として江戸に呼び出され、この年から文政5年までの6年間江戸にとどまりました。
そのころ江戸では、新しい学問や研究が活発になろうとする時期でした。杉田玄白(すぎたげんぱく)の解体新書(かいたいしんしょ)が出されたり、蘭学(らんがく)を通じて、医学や天文、地理、化学、物理などの学問が取り入れられたりしていました。一貫斎は、これらの新しい科学や技術を熱心に吸収(きゅうしゅう)しました。また、当時国学者として名高い平田篤胤(ひらたあつたね)にも学び親しくつきあいました。
こうした多くの人との交流が、後の一貫斎のさまざまな発明に大きな影響を与えました。
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