国友文化村構想(1)



<鉄砲による町づくりを>


国友鉄炮鍛冶資料館(要予約)
(国友昌三氏宅)
湖国のイメージアップに貢献したとして、
平成2年滋賀県より「ブルーレーク賞」を受賞」
 国友の火縄銃製造は、明治以降ほどんど途絶(とだ)えてしまいました。そうした中で、最後の鉄砲鍛冶師・国友覚治郎翁は、その技をただ一人伝えていましたが、昭和の初期には、その伝統も完全に失われてしまいました。

 しかし、昭和55年、覚治郎翁の孫にあたる国友昌三氏(現:「鉄砲の里資料館」館長)が、自宅に残された鍛冶の道具や資料を集めて、私設の「国友鉄炮鍛冶資料館」を開かれました。
 昌三氏は、年寄脇(としよりわき)国友源右衛門の子孫で、臨川堂充昌(りんせんどうみつまさ)や一貫斎(いっかんさい)の実弟源重郎が養子に入っている鉄砲鍛冶の由緒(ゆいしょ)ある家系です。このため、、各種鉄砲はもちろんのこと、現在日本で唯一(ゆいいつ)現存する鉄砲鍛冶道具1505点(市指定文化財)、臨川堂充昌や国友一貫斎の遺品(いひん)や資料、さらには「鍛冶仲間定書(さだめがき)」(市指定文化財)など1813点にもおよぶ古文書(こもんじょ)などが伝わっており、これらの歴史的遺産の保存や顕彰(けんしょう)、さらには鉄砲を通した国友の町おこしを願って、自費で資料館を建てられたのです。



国友鉄砲研究会
能當流砲術の試し撃ち風景
 また、建設中の長浜城歴史博物館に国友鉄砲が展示されるということから、国友鉄砲の素晴らしさを見直そうという動きも生まれました。こうした活動の中心となったのが廣瀬一實氏(現:国友鉄砲研究会会長、日本前装銃射撃連盟副会長)です。昭和56年には、廣瀬氏をはじめ5人の仲間によって、今まで埋(う)もれていた資料を掘り起こし、鉄砲の歴史や仕組みの研究をしようと「国友鉄砲研究会」が結成されました。


 こうして、町全体に鉄砲の里としての国友を見直す雰囲気が生まれました。この動きは、国友製火縄銃の買い戻し運動に発展し、賛同する人が増え続けました。さらに、昌三氏や研究会のメンバーが中心となって町内の文化財展を企画し成功を収めると、「鉄砲鍛冶の歴史的研究と鉄砲隊の編成」「鉄砲資料館の建設」「花火の陣屋や伝承踊りの復元」という町づくりの大きな3つの動きが生まれ、「国友文化村づくり」がスタートしました。



<日本一への誇り>

国友鉄砲の里資料館
 国友には、他所にはない良さ、先人の偉大さ、日本一のものがあります。高い命中率をほこった国友鍛冶の技術、ネジの発見、分業制導入による量産体制、日本における天体観測創始者の出現などです。こうした史実が明らかになり、それらを町民みんなのものにしていったことが、新しい町づくりのエネルギーとなっていきました。

 こうした中で、国友鉄砲研究会によって、種子島をはじめとする全国各地の鉄砲保存会との交流も生まれました。

 当時の松宮長浜市長は、国友鉄砲研究会の取り組みや昌三氏の私設資料館を建ててまで町おこしを願う気持に賛同され、公立資料館設立に同意されました。
 そこで、昌三氏が推されて「国友鉄砲の里資料館」設立実行委員長に就任(しゅうにん)され、各方面に資金の援助や協力を呼びかけたり、館の設計にあたって各地の博物館に出向いて指導を仰いだりされました。そしてついに、昭和62年、長浜市と国友町により1億900万円をかけた「国友鉄砲の里資料館」が建設されたのです。

このページの一番上へ


まえのページへ国友の文化のもくじへつぎのページへ

This page was last updated on 1998/10/13.
Authorized by Kunitomo teppo no sato Matchlock Museum.
Copyright (C) 1998. by Hideo Hirobe.