浜ちりめんの歴史(5)



近代の浜ちりめん

 明治4年(1871)に廃藩置県(はいはんちけん)となり、彦根藩はなくなりました。また、自由にちりめんを生産できるようになり、株仲間も解散しました。しかし、製造元は、藩からの融資(ゆうし)や流通機構(りゅうつうきこう)の保護を失ったため、大きな打撃を受けました。
 ところが、明治6年には、ちりめんが流行し、今までのような藩による制限がなく、大変好景気を迎えました。明治8年には浅見又蔵(あさみまたぞう)、柴田源七(しばたげんひち)が、浜ちりめんをアメリカのニューヨークにも輸出するまでになったと伝えられています。
 しかし、明治10年ごろから、浜ちりめんの品質が低下して国内的には信用を大きく失い人気がなくなりました。
明治から大正時代の織機
明治〜大正初期の織機

 ところが、明治19年(1886)3月には、近江縮緬絹縮組合が設立され、規約(きやく)を定めて検査を行い商標(しょうひょう)をつけて販売するようになりました。このように品質の向上に努めた結果、明治23年ごろから再び浜ちりめんが流行します。
 当時の記録に、「男女ノ別ナク競(きそ)ツテ之ヲ着用ス」とあり、浜ちりめんが復活(ふっかつ)したようすがわかります。このため、湖北地方では、娘をもった家庭では、嫁ぐ娘に必ず浜ちりめんをタンスに収めて、嫁入りさせないと恥(はじ)だとさえいわれるようになったほどだといいます。

 明治21年(1888)には、近江縮緬業組合が設立され、31年(1898)には、組織を改め浜縮緬同業組合と名称(めいしょう)を替え、ちりめん業界が盛んになるように取り組んできました。

 明治37年(1904)には日露戦争の影響をうけて、金融機関(きんゆうきかん)が大混乱し、その上、織物には非常時特別消費税が課せられるようになったので、浜ちりめんの業界は一時的に休業や事業の縮小(しゅくしょう)に追いこまれました。


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(最終更新日 : 1998/11/28)
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