浜ちりめんの歴史(3)



株仲間の結成と彦根藩の保護


誹機株札
 彦根藩は、京都の西陣の業者の反対を押さえて浜ちりめんを売れるように手配しました。
 藩は、宝暦10年(1760)には、林助と庄九郎を織元(おりもと)に命じました。この織元というのは、藩のために製品を検査して検印を押し、印料を徴収(ちょうしゅう)するという役目だそうです。


御年貢縮緬御印札
 また、藩は、二人に掟(おきて)を定めさせ、株仲間を結成させました。(後の記録になりますが、明治2年(1869)には、株数は彦根領で48株、長浜町で36株、ほかの領で108株だったといいます。)

 彦根藩の統制下で、ちりめん業者は、すべての製品を難波村の織元に送り、印料を納めました。「浜ちりめん」を高級織物の一大消費地である京都で販売するためには、「彦根藩年貢ちりめん誹機(あつらえばた)」という名義(めいぎ)の「誹札(あつらえふだ)」という鑑札(かんさつ:許可証)が必要だったからです。
 これにより、彦根藩は、有利な財源(ざいげん)を得たといいます。

 こうして「浜ちりめん」は、彦根藩の生産と販売の両面からの支援もあって、大変売れるようになったといいます。



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(最終更新日 : 1998/11/28)
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