石田三成 出生地

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三成公屋敷跡(現:石田会館)
 石田三成は、豊臣政権五奉行の一人として、民政面で大変力を発揮した武将です。
 現在、石田家の屋敷跡は公民館になっていますが、そこには、「石田治部少輔(じぶしょうゆう)出生地」と刻んだ石碑が建っています。また、近くの神社の裏手に石田三成一族と家臣の供養塔が残っています。

 三成は永禄3年(1560)、隠岐守(おきのかみ)正継の子として石田に生まれました。幼名を佐吉といい、寺に小僧として住み込んでいました。佐吉が10歳の頃、長浜城主だった秀吉は、たまたまこの寺を訪れたとき、佐吉にあい、その才能を見いだし、家臣しました。これが三成が世に出るきっかけになったといわれています。

 三成は天正2年(1574)15歳のときから秀吉に仕えて、秀吉の大事業を助けてきました。

 天正18年(1590)には、佐和山(さわやま:彦根)の城主23万石(19.4万石とも)として故郷の湖北三郡を治めました。

 秀吉の死後、豊臣家を守ろうとして徳川家康らと対立し、慶長5年(1600)関ヶ原で戦いました。しかし、戦に敗れ、とらえられて京都で刑死しました。

出生地の碑

出生地の碑


石田氏一族・家臣供養塔
霊園の入り口から
 屋敷跡の東側にある八幡神社(石田氏の氏神)の裏手には、昭和48年、「石田三成公一族家臣供養塔」が建てられました。

 ここには、江戸時代に破壊をさけるため地中に隠してあった一族の墓が発掘されて祀(まつ)られています。

 現在は、大変手入れの行き届いた霊園となっています。

石田氏供養塔

三成公辞世の歌の碑
 三成公の辞世の歌碑も建てられています。

「筑摩江(ちくまえ)や芦間(あしま)にともすかがり火と
ともに消えゆく我身(わがみ)なりけり」

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(最終更新日 : 1998/08/26)
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