横山城跡(1)案内

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横山ピクニック道……湖北の歴史織りなす山

堀部町の西外れから
 横山城は、長浜市と山東町の境界をなす横山丘陵(臥竜山)の頂上(標高321m)を中心に、三方の尾根にY字形に遺構が残されています。
 その主な施設は、40ヶ所以上の典輪(くるわ)で、その他、各所に土塁(どるい)・堀切(ほりきり)・堅堀(かたほり)などの防御施設(ぼうぎょしせつ)が設けられています。
 これらは堅固(けんご)なもので、典型的(てんけいてき)な戦闘用の山城であったと言えます。

 この城は、織田・浅井の合戦の舞台となりました。元亀元年(1570)の姉川の合戦以前は、浅井氏の出城でしたが、合戦で織田方に奪われました。

 そして、この城を預り、浅井・朝倉軍に備えたのは、秀吉です。浅井氏は、この城を奪い返そうと何度か攻めましたが、秀吉は守り通しました。

 その後、天正元年(1573)の織田信長の小谷城攻めのときには、織田方の本営が置かれ、大変重要な役割を果たしたと考えられています。

 こうして、この城は、秀吉にとって、その後湖北地方を治める直接の足がかりとなりました。



 <城の特徴>
※この城には、本丸が二つあります。「別城一郭」といい、もともと二つの城が一つに組み合わさってできたからです。
 横山城は、室町時代に湖北を治めていた京極氏の支城として築かれました。
 その後、浅井氏が小谷城の出城として利用しました。浅井長政のときに本格的な改築が行われたといいます。浅井氏は、南方への前線基地として利用したのです。
 そして、姉川の合戦で、織田方に移ると、小谷城攻撃の基地として活用されました。
 遺構からは、北城(第2本丸)が浅井氏のもので、南城(第1本丸)が秀吉が築いたものだと考えられています。

※この城には、石垣はありません。土塁(どるい)という土を盛った塀や堀切(ほりきり)という空堀などで、敵を防ぎました。

※城郭は、南北約650m、東西約350mもある大きな城だったそうです。

ピクニック道の案内板

南城本丸(第1本丸)の鐘楼

南城本丸(第1本丸)の井戸跡

北城本丸(第2本丸)の石碑

北城本丸(第2本丸)の様子

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(最終更新日 : 1998/11/29)
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