「三成にまつわる言い伝え」



  石田三成は、永禄(えいろく)3年(1560)に石田村に生まれています。近くの観音寺で勉強していた三成が、鷹狩(たかが)りに来た秀吉にお茶をさしあげたことから、その家来になった話は有名です。

 三成は秀吉を助けて国家の大事に走りまわり、その子秀頼を立てて豊臣家を守るため、家康と関ヶ原で戦い、武運(ぶうん)つたなく敗れました。そのため、次の徳川時代を通じて厳重(げんじゅう)な監視(かんし)と取り調べにあい、その出生地石田には遺跡(いせき)はもちろん石田の姓(せい)を名のる者もなく、言い伝えさえ絶(た)たれています。そこで今、わずかに残されている言い伝えをひろい集めてみました。

 石田町に小字(こあざ)「治部(じぶ)」という所があります。これは三成に与えられた位の名「治部少輔(じぶしょうゆう)」からとられたものであり、ここが三成の屋敷跡といわれています。ここには「お堀ばた」と呼んでいる堀の一部が残っていて、今は石田三成顕彰碑(けんしょうひ)と会館が建てられています。そこから少し北の方に、三成の産湯(うぶゆ)の水をくんだといわれる井戸があります。

 小字治部(じぶ)の西隣(にしどなり)に小字「的場(まとば)」という所があって、石田氏の家来がそこで弓のけいこをしたと伝えられています。また、東の方には石田氏の氏神(うじがみ)であったという古宮(こみや:八幡神社)があり、その裏に石田氏代々の墓があったようです。長い間「ここを掘ると腹が痛くなる」とか「病気になる」とかいわれてきましたが、昭和16年に三成顕彰(けんしょう)会の人々が掘られたところ、おおくのこわれた墓石(はかいし)が出て、中には「永禄5年6月」とか「――禅定門」等の文字のあるものもありました。

 市の東に連なる臥龍山(がりょうざん)の中ほどに、北谷といい仏厳寺山という小高い尾根があります。その頂上に岩が組みあった洞穴(ほらあな)があり、その上に千貫石(せんがんいし)がどっしりとすわっています。これを村の人々は「三成の軍資金(ぐんしきん)がかくしてある所」といっています。いかにも地下の軍資金を守っているように見えます。時には光がさすとかのうわさもあり、近づいてみると、今にも転げ落ちそうに見えて、だれ一人手をふれるものはなく、天下の名将三成の軍資金は永く岩の下に眠り続けることでしょう。

 佐和山(さわやま)城主となった三成は、その当時としてはたいへん民主的で情(なさ)けある村掟(むらおきて)を出していますが、その給人地としての九ヶ条の掟(おきて)が、ここに近い八条町に残っているといわれています。三成はまた、国友村の鉄砲づくりに百石を与えてその業を奨励(しょうれい)しました。関ヶ原の戦で石田方の使った鉄砲はすべてそこで造られたものだったといわれています。また西上坂村に残されている「しょうじ制」は、徳川幕府が西上坂村の上坂八右衛門に出した、石田方取締(とりしまり)の掟(おきて)の名残(なごり)だともいわれています。

(「長浜の伝承」 長浜市教育委員会:編 参照)


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(最終更新日 : 1998/08/26)
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