「龍が鼻(たつがはな)の横井(よこゆ)



 長浜市の東部を、南北に走っている小高い山並を臥龍(がりょう)山と言い、その北の端を龍が鼻(たつがはな)と言っています。ここに伊吹山麓(さんろく)から流れ出した姉川が接しています。郷里(ごうり)の庄では、昔からここで姉川を堰(せ)き止めて、田用水(でんようすい)としてきました。この井堰(いせき)を横井(よこゆ)と呼んでいます。

 この横井は、姉川の両岸にある多くの村落が関係していて、昔から、日照(ひで)りの時には水争いが絶(た)えませんでした。

 応永25年6月の大旱魃(かんばつ)には、浅井三か村と郷里の間で、激(はげ)しい水争いが起こりました。夜を日に継(つ)いで話し合いもしましたが、容易(ようい)には解決(かいけつ)せず、被害(ひがい)も大きくなるばかりでした。

 ついに、浅井の三田村殿から、郷里の上坂(こうざか)殿へ使者をつかわし、

「当年は、まれな渇水(かっすい)で水論(すいろん)が止(や)まないから、後々のため一戦を交(まじ)え、勝った方へ、末代(まつだい)まで異議(いぎ)なく水を取らせるようにしよう。」

と申し出ました。上坂でも早速(さっそく)これを受け、翌々8日卯の刻(うのこく:午前5時頃)より、龍が鼻において、一戦を交(まじ)えることになりました。

 双方(そうほう)は、龍が鼻の付近(ふきん)で戦いましたが、三田村勢が出鼻(でばな)をくじかれて、一町(いっちょう)あまり川下に退却(たいきゃく)しました。ところが、三田村殿の郎党に、野村善四郎という弓(ゆみ)の上手(じょうず)がいて、郷里勢に立ち向かい、たちまちのうちに三人を射殺(いころ)し、四人を討(う)ちふせました。そこへ、中野清四郎も槍(やり)をひっさげて真先に進み、三人を突(つ)きふすと、郷里勢は総崩(そうくず)れとなって、上坂領内の堂根俣(どうねまた)まで逃げて来ました。

 ところが、上坂勢では、かねてからの示し合わせであったのか、宵の口(よいのくち)から箱手山の南の山影(やまかげ)に伏(ふ)せて、チャンスをうかがっていた大野木海楽の一党が、この時とばかり三田村殿の後から切ってかかりました。この時、海楽殿の郎党で松島左太夫という剛(ごう)の者が、三田村殿と一騎討(いっきう)ちをし、ついに、三田村殿を倒してしまいました。

 上坂勢は急に勢を得て、両方からはさみ討(う)ちをし、双方激しい合戦となりました。三田村殿が討(う)たれたと聞いて、野村善四郎・中野清四郎等も馳(は)せつけましたが、夜明けからの戦いに疲れ、前後の敵に切り立てられて、横道から三田村に逃げて帰りました。

 以後、郷里(ごうり)に用水の必要なときは、姉川を断(た)ち切り、練(ね)り止めにして、水一滴(いってき)も下(しも)へはやらないことにしました。これを郷里の庄、龍が鼻(たつがはな)横井堰(よこゆせき)の起源(きげん)としています。

 これは昔話です。この川筋には樽(たる)にくんだ水を垂(た)らして時間を計り、川を切り替える樽番(たるばん)という習わしも、永く続けられていましたが、今は上流に、姉川合同井堰ができて、水争いや潅漑(かんがい)の苦労などは、昔語りになってしまいました。

(「長浜のむかし話」 長浜市老人クラブ連合会:編 参照)


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(最終更新日 : 1998/08/26)
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