「およそ」



 名越(なごし)町の東の山のふもとにあるお社(やしろ)は、後鳥羽(ごとば)神社といって、後鳥羽院をお祀(まつ)りしてあります。昔、この土地をこよなく愛され、長くお住まいになられた院にまつわるお話は、七岡山の美しさをほめたたえられたということをはじめ、いくつか残されていますが、ここに、その二つを紹介しましょう。


 昔、大戌亥(おおいぬい)村に「およそ」という美しい女の人がいて、院の菜女(そばめ:側女)として、よくお仕(つか)えし、心からお尽(つく)し申し上げました。

 院はことの外、彼女をお目にかけられ、愛されました。彼女は院より、菊一文字(きくいちもんじ)の名刀や、菊の絞(しぼ)りの羽織(はおり)などを頂戴(ちょうだい)し、その上五十人もの家臣を養(やしな)えるだけのお米を与えられる身分に、お引き立てに預(あず)かりました。

 およそは、院よりいただいた数々の品々は、尊いものであるため、俗(ぞく)にいうおよそ屋敷(やしき)にお納(おさ)め申し上げたと語り伝えられています。今も町のお年寄りたちの間には、およそ祭りという言葉が伝えられて、その話が残されています。


 大戌亥(おおいぬい)町から永久寺(えいきゅうじ)町を経て、本庄(ほんじょう)町へ通じる古くからの道が、今もありますが、昔は、この道を黒田街道と呼んでいました。その中ほどにあたる永久寺地先の路傍(ろぼう)に、後鳥羽院が、お休みのため腰(こし)を下されたという、いわれのある石があって、「後鳥羽院の腰掛(こしかけ)石」と名づけ、長い間、土地の人々が大切にしてお護(まも)りしていました。

 ところが、大正のころとなり、道路の新設工事の関係で、その石は、永久寺町の八坂(やさか)神社の境内(けいだい)へと移されました。現在も、そのままの姿で、同じく「後鳥羽院の腰掛石(こしかけいし)」と呼んで、人々に伝えられ、ていねいに取りあつかわれています。

(「長浜のむかし話」 長浜市老人クラブ連合会:編 参照)


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(最終更新日 : 1998/08/26)
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