「横山城址(し)の怪(かい)



 横山城は、浅井長政の命によって、遠藤直経(なおつね)が永禄(えいろく)4年に築いたもので、常に東方の織田信長に備えていました。ところが姉川合戦のとき、木下藤吉郎(とうきちろう:秀吉の若いころの名)に攻(せ)め落とされました。小谷城が落城して浅井氏がほろび、藤吉郎が長浜城にはいってこの辺りの領主(りょうしゅ)となってからは、使われなくなりました。

 本丸は、横山の高見の尾根(おね)に築かれ、すぐその下の西の丸は、米蔵(こめぐら)などがあった所らしく、今も炭のようになった米粒を見ることがあります。南の丸は、山東町朝日の観音寺(かんのんじ)の鐘楼(しょうろう:鐘つき堂)の近くにありました。

 ところで、これは江戸時代の話です。秋の取り入れを終り、菜種(なたね)や麦の春作の仕付(しつ)けをすますと、村人たちはこぞって、冬ごもりの仕度(したく)に、山へ木の葉さらえに行きました。朝早くから、「たす」(縄で編んだもっこを合わせたようなもの)を背負い、「こまざらえ」を持って山へ登って行きました。入口に近い所は、もうさらえられてしまっているので、後の人はどうしても人の行かない所へ、よじ登って行かなければなりません。

 この女の人も、松や杉の木を足場に、急な斜面(しゃめん)をよじ登って行きました。ぐっと足をふまえて、上から下へ木の葉をかき落とそうと、天守(てんしゅ)のあった頂上の方を見上げました。すると、松の木にもたれかかって、うなだれている一人の武士を見つけました。その武士は頭を上げ、ものすごい顔つきでこちらをにらみつけました。女の人は、身の毛もよだつ思いで、一目散(いちもくさん)に山をかけおりました。そして、そのまま食事もとらずに寝こんでしまい、ついに亡くなってしまいました。

 またこれも、肌寒(はだざむ)い秋の終りごろ、西の丸のあった辺りへ木の葉をかきに行った人が、ちょうど西の山に日が沈(しず)もうとするころ、米蔵の跡(あと)と思われる所に、木刀(ぼくとう)一本を腰(こし)にさした下働き風の男が、左手に桶(おけ)を持ち、右手を桶の中につっこみ、米をかしぐ形に立っているのを見ました。この人も驚いて逃げ帰り、二、三日は物も言わずに寝こんでしまったということです。

 とにかく、横山城で討死(うちじに)にした武士たちの怨念(おんねん:うらみの思い)だったのだろうと伝えられえています。

(「長浜のむかし話」 長浜市老人クラブ連合会:編 参照)





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(最終更新日 : 1998/08/25)
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