「八ッ窓の茶室忘筌(ぼうせん)席」



 舎那院(しゃないん)の先々代住職(じゅうしょく慈海老僧は、子葉、大高源吾の抹茶茶碗(まっちゃちゃわん)を手に入れて、大そうな自慢(じまん)でした。何しろ忠臣蔵(ちゅうしんぐら)で天下に名のある有名人物の名がものを言って、好き者の間にさわがれていたからです。長浜に縁故(えんこ)があったからか、そのうわさは遠く北海道まで飛んで、札幌の好事家(こうじか)(ぼう)氏の耳に入り、はるばる長浜の舎那院まで訪ねてきました。ところがこの人は眼が高くて、子葉の茶碗よりも同院の数寄(すき)をこらした八ッ窓の茶室に眼をつけました。茶室の保持(ほじ)に困っていた折りも折り、古びた茶室に法外(ほうがい)な値がつけられたので、その場で話はきまってしまい、代金を受け取る時には住職(じゅうしょく)も手がふるえるほどだったそうです。後でこの事を聞き、惜(お)しいことをしたと町の茶人(ちゃじん)連中が残念がりましたがもう後の祭りでした。

 茶室は小堀遠州(こぼりえんしゅう)が「忘筌(ぼうせん)」と書いた額(がく)があった事から、八ッ窓の忘筌の席と呼ばれ、小堀遠州好みの作と伝えられていました。草庵風切妻造(そうあんふうきりつまづくり)、たたき屋根で天井(てんじょう)は床(とこ)前から点席前まで蒲(がま)の手張り、棹(さお)は竹、床柱(とこばしら)は椿(つばき)、台目(だいめ)柱は皮つきの赤松、窓の格子(こうし)は葭(よし)、二畳台目構出炉(だいめかまえでろ)の形式、外欠け一畳は天井がなく、炉(ろ)の上にあたる所に突上(つきあげ)窓がありました。組立式になっていて、必要のない時は解体(かいたい)して保存(ほぞん)しておけるようになっていました。舎那院では簡単(かんたん)な丸石の上に建っていました。

 茶室を北海道に送るについては、錦(にしき)町の大工が解体(かいたい)し、数個の長持(ながもち)を求めて壁土(かべつち)までも全部それにつめて鉄道便で送りました。大工さんも共に北海道まで出かけました。


 茶室がまだ長浜にあった頃の話ですが、神前町に火事がありました。茶室は解体して他へ移されていましたが、再建することになった時、台目柱が紛失(ふんしつ)していることがわかり大騒ぎになりました。幸い柴(しば)部屋の薪(たきぎ)の中にまじっていたのが見つかって、やれやれと安堵(あんど)の胸をなでおろしたことがあったそうです。その時、台目柱に損傷(そんしょう)ができて漆(うるし)で継(つ)いだといいますから、その傷あとは残っているはずです。

 茶室は、明治34〜5年頃、川崎の円教寺から移されたものでした。その前は八幡宮の社坊(しゃぼう)俊蔵院にあり、その前は東浅井郡小室(こむろ)の小堀家の陣屋内にあったものだといわれていました。いずれにしても、小堀遠州の出生地長浜から、遠州ゆかりの遺構(いこう)がなくなったのは惜(お)しいことでした。

(「長浜の伝承」長浜市教育委員会:編 参照)


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(最終更新日 : 1998/08/28)
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