| 「八ッ窓の茶室忘筌(ぼうせん)席」 |
でした。何しろ忠臣蔵(ちゅうしんぐら)で天下に名のある有名人物の名がものを言って、好き者の間にさわがれていたからです。長浜に縁故(えんこ)があったからか、そのうわさは遠く北海道まで飛んで、札幌の好事家(こうじか)某(ぼう)氏の耳に入り、はるばる長浜の舎那院まで訪ねてきました。ところがこの人は眼が高くて、子葉の茶碗よりも同院の数寄(すき)をこらした八ッ窓の茶室に眼をつけました。茶室の保持(ほじ)に困っていた折りも折り、古びた茶室に法外(ほうがい)な値がつけられたので、その場で話はきまってしまい、代金を受け取る時には住職(じゅうしょく)も手がふるえるほどだったそうです。後でこの事を聞き、惜(お)しいことをしたと町の茶人(ちゃじん)連中が残念がりましたがもう後の祭りでした。
茶室がまだ長浜にあった頃の話ですが、神前町に火事がありました。茶室は解体して他へ移されていましたが、再建することになった時、台目柱が紛失(ふんしつ)していることがわかり大騒ぎになりました。幸い柴(しば)部屋の薪(たきぎ)の中にまじっていたのが見つかって、やれやれと安堵(あんど)の胸をなでおろしたことがあったそうです。その時、台目柱に損傷(そんしょう)ができて漆(うるし)で継(つ)いだといいますから、その傷あとは残っているはずです。
茶室は、明治34〜5年頃、川崎の円教寺から移されたものでした。その前は八幡宮の社坊(しゃぼう)俊蔵院にあり、その前は東浅井郡小室(こむろ)の小堀家の陣屋内にあったものだといわれていました。いずれにしても、小堀遠州の出生地長浜から、遠州ゆかりの遺構(いこう)がなくなったのは惜(お)しいことでした。