「お宮のひょうたんと的石」



 宮川(現在の宮司町南部)は昔、比叡山(ひえいざん:延暦寺のこと)の荘園(しょうえん)であったことから、鎮守(ちんじゅ)の神様は日枝(ひえ)神社です。この神社の入口右手に京極(きょうごく)氏が奉納(ほうのう)したという井戸があります。その京極井戸で手を清めて奥(おく)に進むと、ここにも手洗いの水が出ています。大きな自然。石の上部をひょうたんの形に刻(きざ)み、そのひょうたんの口から水が出る仕掛(しか)けになっています。村人はこれを「お宮のひょうたん」といって、たいへん自慢(じまん)にしています。

 毎年8月23日の地蔵盆(じぞうぼん)の日に、村の14歳までの子どもたちが「南無地蔵大菩薩(なむいじぞうだいぼざつ)」ののぼりをもって家々をまわり、供養(くよう)のおこころざしを集めて歩いた後、そののぼりを持ったまま、日枝神社のまわりを何回も何回もまわるのですが、その時に大きな声で歌う歌にもこのひょうたんのことが歌われています。

 歌はまだまだ続きます。京極井戸は神木(しんぼく)の欅(けやき)の青葉をうつして神々(こうごう)しく静まり、子どもたちの歌声は鎮守(ちんじゅ)の森にこだまして消えてゆきます。

 ここの神社では、参道(さんどう)の両側に立つ大欅(けやき)に注連縄(しめなわ)が張られて、鳥居(とりい)の役を果たしていたそうです。

 この神社の前の道を隔(へだ)てた西南の川端(かわばた)に、元運輸大臣村上義一氏の筆になる「宮川陣屋(じんや)跡」の大きな碑(ひ)が立っています。人々は、その碑の石に「的石(まといし)」を選んだのです。この的石というのは、昔、宮川藩の調練場(ちょうれんじょう)に立っていたもので、家来たちが弓の練習をする時に標的(ひょうてき)にした石です。大きさといい、由来(ゆらい)といいちょうど碑にふさわしいというので話は一決しました。

 早速(さっそく)、的石の立っていた調練場の薮(やぶ)のあたりを探したのですが、どこにも見当りません。かんたんによそへ持ち出せるものではないので、不思議(ふしぎ)に思いながらもあきらめて帰りかけました。すると一番後ろから薮を出ようとした一人が、調練場のまわりを囲(かこ)んだ堀(ほり)にかかっている石橋(いしばし)にふと目をやりました。

「あったぞ。的石があったぞ。この石橋が的石にちがいない」

 そうです。的石は石橋にばけていたのです。朽(く)ちた木の橋にかえて、いつの時代かに架(か)け替(か)えたのでしょう。みんなは大喜びでこの的石を掘り起こし、きれいに洗って記念碑にしたのです。

 かつて領主(りょうしゅ)であった宮川陣屋の殿さま堀田(ほった)氏を慕(した)って、明治以来(いらい)願っていたことがかなったのです。

(「長浜の伝承」 長浜市教育委員会:編 参照)


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(最終更新日 : 1998/08/28)
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