「築港(ちくこう)工事」



 昔、長浜港は交通の中心地として大変賑(にぎ)わっていました。

 明治時代になると、びわ湖では、大きな汽船が行き来するようになったので、長浜でも長浜城址(し)の外堀(そとぼり)を利用し、より大きく便利な港を作ることにしました。ちょうど、その頃、陸路では、関が原と長浜間に鉄道が敷(し)かれることになり、それに間に合うように、新港が完成するよう築港(ちくこう)工事を急ぎました。

 この築港作業には、おもに田町と栄船町付近の舟を持っている百姓たちが従事(じゅうじ)し、懸命(けんめい)に働きました。しかし、作業は思うように進まず、重労働、しかも給金(きゅうきん)が安いので、一向(いっこう)にはかどりません。日がたつにつれて、仕事をやめる人もたくさんでてきました。

 その時、長浜町内の有名なお金持ちが、この事態(じたい)をたいへん心配してして、工事がうまくいくようある計画を考えつきました。ある夜、ひそかに一人の漁師をつれて、小舟を出し、一分金(いちぶきん)や二分金、あるいは小判(こばん)などをあちら、こちらと、水中に投げ入れました。

 次の日の朝、泥(どろ)かき作業を始めた人の中から、

「おおい!金(かね)があったぞ!」

と大声で叫(さけ)ぶものがありました。さあ、たいへんです。泥上げをしていた他の人たちは、自分もすくい上げようと、一生懸命(いっしょうけんめい)になりましたから、作業はにわかに活気づきました。

 この噂(うわさ)が世間に広がりますと、あくる日から欲(よく)の深い人がわれもわれもと現われて、あれほど難航(なんこう)していた工事も予定通り進行し、港は見事に完成しました。

 その時、すくい上げた土砂で築かれたのが今の明治山です。

(「長浜のむかし話」 長浜市老人クラブ連合会:編 参照)


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(最終更新日 : 1998/08/28)
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