「豊島池」



 加田(かんだ)村一帯は、昔からたいへんに水の便(べん)が悪く、5月の田植時や、8月の出穂(しゅつすい:穂が出ること)前に田用水が不足して、稲の収穫が全くないといったな災害(さいがい)にあったことも度々でした。

 慶長(けいちょう)の頃、代官(だいかん)として、加田村の陣屋詰(じんやつ)めとなった豊島作右衛門(とよしまさくえもん)は、この日照りによる災害(さいがい)を救うため、溜池(ためいけ)を作ることを思いたちました。

 作右衛門は、まず地形を考え、亀岡(かめおか)とその東にある松岡(まつおか)との間の地を選んで、建設にとりかかりました。加田村の農民のほか、近くの村々の百姓衆、遠くは山東柏原付近からも人を集め、工事を進めました。幾年(いくねん)かかったか詳(くわ)しいことはわかりませんが、ざるかごやもっこなどを手に手に持ってリレーし、両方の山側へ土を運んだ仕事は、たいへんな苦労だったと思われます。ついに、2町8反余(約3ヘクタール)の広大な溜池(ためいけ)が完成し、五乗川(ごじょうがわ)に水路を通じて、60ヘクタール余りの田地に、給水(きゅうすい)できるようになった時の、農民の喜びはどれほどだったでしょうか。

 加田村の東部の田は、近くの村からのもらい水で急場はしのがざるえませんでしたが、南部の田はいうまでもなく、田村山の南の方の田までも、この溜池(ためいけ)の水で安心して稲作(いなさく)をすることができるようになりました。

 ところが、作右衛門は、ふとしたことから上役(うわやく)の怒(いか)りにふれ、代官として日々不行届(ひびふゆきとどき:毎日十分な仕事をしていない)、との罪(つみ)によって、北国の低い身分の役人にされることになりました。この時、村人たちは、後からお役所からとがめられることを恐れて、慰謝金(いしゃきん)も出さず、加田村から去っていく作右衛門を見送ろうともしませんでした。ただ、中川権兵衛(ごんべい)・中村角仲(かくちゅう)の二人だけが、北国街道の田村まで見送りに出ました。

 作右衛門は、この淋(さび)しい別れを嘆(なげ)いて、

「加田郷(かんだごう)永遠(えいえん)の利便(りべん)を思い、苦難(くなん)の果(は)てに漸(ようや)くこの溜池を作ったのに……。」

と言い残して、肩を落として、一人北国へ旅立ちました。

 その後、作右衛門がどこでどうしていたのかは何も伝えられませんでしたが、加田村には度々災(わざわ)いが起こりましたので、人々は、作右衛門の怨霊(おんりょう)にたたられているのではなかろうかと、言いあうようになりました。

 明治35年になって、ようやく作右衛門公の霊(れい)を祀(まつ)り、そのご恩を忘れず伝え広めるために、村人の心ある人がみんなに働きかけて、亀岡山の上に記念碑を建てました。

 戦後、長浜南部用水が完成してから、この溜池(ためいけ)が不用になりましたので、一時、埋(う)め立ての計画が立てられましたが、この池の値打ちをよくわきまえた人の発言で、貴重(きちょう)な遺跡(いせき)として保存(ほぞん)されることになりました。昭和50年秋、公の霊(れい)をお祀(まつ)りする、豊島神社が、この池の近くに建てられました。

(「長浜のむかし話」 長浜市老人クラブ連合会:編 参照)


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(最終更新日 : 1998/08/28)
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