「田村浜あれこれ」



 元亀(げんき)2年5月、湖北十か寺を先導者(せんどうしゃ)とする一向一揆(いっこういっき)の農民は、浅井長政に味方して、信長の部下である箕浦(みのうら)城を攻(せ)めました。急を聞いた信長は、秀吉に命じて一揆(いっき)を防がせました。一揆の農民は、歴戦(れきせん)で鍛(きた)えぬかれた秀吉の軍の相手ではありませんでした。追(お)いつめられて、今浜(いまはま:長浜の旧名)に向かって敗走(はいそう)を始めました。一人も逃がすなと秀吉の軍勢(ぐんぜい)に追いたてられます。秀吉は馬上からこのありさまを見ると、一隊を先まわりさせて今浜への道路を断(た)たせました。一揆の人々は逃げ道を失って、湖の中にとびこみました。泳げる者は北に向かって泳ぎ、泳げない者は沖の方へ追われ、力尽(ちからきて湖に沈(しず)んでいきました。

 こんな恐ろしいことのあった所ですから、明治、大正の頃になってもこの浜には、さいかちの木などが昼なお暗いばかりに繁(しげ)っていました。夏になって子供たちが湖へ泳ぎに行きたいと言いますと、「あそこは、子取りが出る所やから、はよ戻(もど)らんとあかんぜ」と、よく注意された所でした。

 田村の墓地(ぼち)は、そんな淋(さび)しい所にありました。その墓地の近くに、「蔵(くら)の前」という所があり、北国街道からここまで、荷車(にぐるま)の通る道がついていました。この蔵の前の西に「垣内(かきのうち)」という一角(いっかく)があって、そこに彦根藩への上納米(じょうのうまい)を入れる倉(くら)が建ちならんでいました。倉の西側の湖水に面して港がありました。湖北の各地から集められた上納米は、荷車で蔵の前に運ばれ、一俵(いっぴょう)一俵きびしい検査(けんさ)を受けて上納するのでした。垣内の倉に入れられた上納米は、必要なだけ船で彦根城に運ばれていたのです。

 彦根城に運ぶ船は丸子船(まるこぶね)という船でした。その丸子船がここの港に出入りする時の目印(めじるし)にしたのが、今も田村の墓地にそびえている大きな松の木でした。幹(みき)のまわりは5メートル弱、高さは15メートルもあると思われます。

(「長浜の伝承」長浜市教育委員会:編 参照)


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(最終更新日 : 1998/08/26)
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