「長浜城の人柱」



  今から約400年前、姉川の合戦(かっせん)で手柄(てがら)のあった秀吉(ひでよし)は、信長から北近江の地を治(おさ)めるように命(めい)ぜられました。秀吉がまだ羽柴筑前守(はしばちくぜんのかみ)と名乗っていたころのことです。
 天正(てんしょう)元年、秀吉は、居城(きょじょう)として、今浜(当時、長浜は「今浜」と呼ばれていました。)の湖畔(こはん:現在の長浜豊公園)に、城を建てる計画を立てました。その築城(ちくじょう)の命を受けたのは京極氏(きょうごくし)です。

 京極氏は、まず、人柱(ひとばしら)を探し求めました。昔は、橋などを造る大きな工事の場合には、それが大水で流されたりしないように、また、いつまでもじょうぶであるようにと、橋台に娘を生き埋(う)めにしたものでした。お城を建てるのにも、橋の場合と同じく、お城がしっかりして戦(いくさ)になっても破(やぶ)られることがないように、人柱として娘を必要としたのです。
 しかし、適当(てきとう)な娘は、なかなか見つかりませんでした。たまたま、付近(ふきん)の漁師(りょうし)に出会い、
「このあたりに、娘はいないものか。」
と尋(たず)ねました。漁師は、何と思ったものか、すぐその場で、
「私の家に、娘が二人おりますが。」
と答えました。京極氏は、喜んで、
「そのうちの一人を、ぜひ築城(ちくじょう)の人柱(ひとばしら)に差し上げてほしい。」
と、事情を話して頼(たの)み願いましたところ、漁師は、心静かに、
「差し上げましょう。」
と申し出ました。
 漁師には、姉妹二人の娘がありましたが、妹は、「しのぶ」といって、目が見えませんでした。かわいそうな「しのぶ」を見るに忍(しの)びず、せめてものこと思いきって、この子をお城の御用(ごよう)に立てさせてはとの、親心がはたらいたからなのでしょうか。

 さて、差し上げることは承知(しょうち)したものの、考えてみれば人柱などとはいかにもかわいそうなことで、どうして本人に話をしようか、とても言い出しかねて、なかなか決心がつきません。日時はまたたくうちに過ぎました。築城も目前に追(せま)って来ます。京極氏からは、早く約束(やくそく)をはたしてほしいとの催促(さいそく)が再三(さいさん)にわたってまいります。りっぱなお城造りのお役に立つことでもあるしと、とうとう気をとりなおして決心しました。そして、思いきって、ある夕食の時、
「しのぶよ。父の願いを聴(き)き入れてくれ。殿様のお城の人柱となって、りっぱに御用(ごよう)に立ってもらいたいのだ。」
と、口をきりました。それを、かたわらで聞いていた姉の「きく」が、
「何をおっしゃるのですか。妹は生まれながらの目の見えないかわいそうな子です。それにひきかえ、私は姉として生まれ、体もじょうぶで、世の中の何事も、十分見せてもらい、また味わわせてもらいました。私は妹に比(くら)べたら、たいへんなしあわせ者です。いっそのこと、妹のかわりにこの私を御用に立ててください。」
と、涙(なみだ)ながらに申しました。

 父の漁師は、その言葉にしたがって、泣く泣く姉娘「きく」を人柱として、お城の御用に立てたのでした。

 旧本丸跡(きゅうほんまるあと)に今もある祠(ほこら)は、人柱となった姉娘の霊(れい)を、永(なが)く弔(とむら)うために建てられた稲荷明神(いなりみょうじん)なのです。

(「長浜のむかし話」 長浜市老人クラブ連合会:刊 1977/02 参照)


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(最終更新日 : 1997/10/26)
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