「さいかちの木」



 下坂浜(しもさかはま)の一帯(いったい)は、昔、浜村と呼ばれ、またの名を「さいかち浜」とも言いました。

 もともと「さいかち」というのは、樹木(じゅもく)の名前で、「皀角子」と書くそうです。この木は俗(ぞく)に謄吹山(いぶきやま:伊吹山)の華表(かひょう:鳥居)とも言われ、またこの木の削(けず)って煎(せん)じて飲むと、腫(は)れものの熱を止める薬にもなるとも伝えられています。

 昔は、この木が、この町あたりから、ずっと遠く彦根方面まで、湖岸沿いに植えられていたと言います。普通には、あまり見られない珍(めずら)しい木で、そのみごとな枝ぶりとともに、木々の美しい緑なす風景が湖水に映(は)えて、道を行き来する人々の目を楽しませたそうです。今でも田村浦(たむらうら)や世継(よつぎ)の浜辺には、その古い株(かぶ)が残っているといいます。

 下坂浜付近は、昔は、ずっと湖の沖(おき)まで村であったらしく、彦根の殿様への年貢米(ねんぐまい)を入れる白壁(しらかべ)の大きな米倉(こめぐら)が、ずらりと並んで建っていたのも、現在の湖岸から百メートルも沖合(おきあい)であったと伝えられています。ここはまた、一向一揆(いっこういっき)の悲しい古戦場(こせんじょう)でもあり、その戦士の墓場(はかば)も、今は湖中に姿を消してしまって、これも語り伝えごとになってしまいました。

 今はさいかちの木が、それらの話の名残(なご)りとして、わずかながら生き続けています。 江戸時代から今までの、いろいろな災害からよくまぬがれて、生き残ったうちの一本は、今も大きくりっぱに生(お)い繁(しげ)り、遠い昔からの歴史を物語っているようです。土地の人々は、由緒(ゆいしょ)あるこの木を記念の木、なつかしい名木として、代々大切に守り続けてきました。

(「長浜のむかし話」 長浜市老人クラブ連合会:編 参照)


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(最終更新日 : 1998/08/26)
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