「三原屋敷」



  西上坂町に上坂城跡があります。そこは丸の内(まるのうち)と呼ばれ、今は遊園地になっていますが、つい先頃まで、まわりに堀をめぐらし、高い土手を構えた城跡が残っていました。明智光秀がくぐったという門や、馬駈(か)け場という所は今でも残っています。

 ここに城に居(きょ)を構(かま)えた上坂(こうざか)氏は、室町時代から京極(きょうごく)氏のもとに、姉川の出雲井(いずもゆ)、龍ヶ鼻(たつがなは)の郷里堰(ごうりせき)などを管理(かんり)していました。秀吉の時代には、伊賀守意信(いがのかみおきのぶ)、信濃守貞信(しなののかみさだのぶ)らがここを治めて勢力をはっていました。その屋敷跡は、今も「いがんど」「しなんど」と呼ばれ、主として北方の浅井氏の攻撃(こうげき)に備(そな)えて、北・西・東側に築かれた土手が今もその名残(なごり)をとどめています。

 ちょうどその間に、「三原屋敷(みはらやしき)」と呼ばれる屋敷跡が残っています。代々上坂家の家老(かろう)をつとめた豪族で、先代の頃までは、家宝(かほう)の名刀(めいとう)が伝えられていたそうです。

 ところで、この屋敷には、いくら水を入れても絶対(ぜったい)に水がたまらないという言い伝えがあります。これは、屋敷(やしき)の中ほどにぬけ穴が掘(ほ)られていて、水はその穴からどこかへ流れてしまうのだろうといわれています。つい先々代の頃、夜になるとそのあたりに光がさすことがあって、一度掘ってみようということになり、近所の人が掘ってみたところ、地下3メートルほどの所で、大きな傘(かさ)のような形をした岩にふさがれていて、後は掘れなかったそうです。 現在でも水を入れると、その辺りまで水がたまってこないと水が上がってこないそうで、井戸の跡だったかも知れないと言われ、現在は畑になっています。

 上坂城をふくめて、この辺り一帯は、手をふれるとたたりがあると言って、永(なが)く人の近寄(ちかよ)ることを禁(きん)じてきました。こんな秘密(ひみつ)をかくすためか、人の手を入れさせないためだったのかと思われます。

(「長浜の伝承」 長浜市教育委員会:編 参照)


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(最終更新日 : 1998/08/28)
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