近江町舟崎と、小一条との郷境(ごうざかい)に、諸頭(もろとう)山という山があります。その尾根に登るところを「ばんふところ」とよんでいます。
現在では、すぐそばを新幹線が通り、北陸自動車道のものすごく高い陸橋がかかって、すっかり様子が変わってしまいました。つい先ごろまでは、一方は山、もう一方は長い薮(やぶ)が続き、舟崎へも小一条へも民家が遠く離れていて、昼なお薄気味(うすきみ)悪い所でした。
ところで、源頼光(みなもとのよりみつ)の家臣で、四天王(してんのう)の一人に数えられた坂田の金時は、布勢郷(ふせのごう)に生まれて、ここで乳母(うば)に育てられたと言い伝えられています。「ばんふところ」と言うのは「姥(うば)が懐(ふところ)」のなまったものだと言われています。
幼いころの名を金太郎といったこの少年は、このさびしい山里に乳母に育てられながら、丸々と育ち、生き生きと遊びまわる力持ちの子どもでした。ある時は、すぐ近くの鯉(こい)が池に行って大きな鯉をつかんで遊びました。大きい鯉の背にまたがっている金太郎は、このときの様子をあらわしたものでしよう。
またある時は、常喜(じょうぎ)村の熊(くまおか)山や足柄(あしがら)山にわけ入って、クマやサルやウサギと遊んだりしました。本庄村・八条村・七条村などの足柄(芦柄)神社の奉納(ほうのう)相撲にも、クマと相撲をとって見せました。
少し大きくなった金太郎は、当時、この地で力のあった息長(おきなが)家の村の刀鍛冶(かたなかじ)のもとで働き、そのたくましい体と気迫(きはく)をもって大槌(つち)をふるっていました。
平安後期、この地は名超(みょうちょう)寺・冨施(ふせ)寺など、天台宗(てんだいしゅう)のお寺が栄え、中央の朝廷(ちょうてい)とも政治的・文化的な交流が盛んでした。
天延(てんえん)4年(976)、旧暦3月21日、上総守(かずさのかみ)の任期(にんき)が終わり京都に帰る源頼光が、足柄山にさしかかると、はるか向こうの山の真ん中あたりに紫(むらさき)色の雲がたなびくのを見て、あの山のふもとには必ず立派な人物がいるに違いないと、渡辺の源次綱を遣(つか)わしてさがさせました。
おりしも、坂田の七岡山・布勢・小一条・名越の横山一帯は、たいへんな数の山つつじが紫(むらさき)の花をつけ、実にみごとな眺(なが)めでした。紫雲(しうん)たなびく山里と頼光の眼にうつったのはこのためでした。
思った通り、この山里に60歳あまりのおばあさんと、幼い顔つきがのこる20歳ほどのたくましい青年を見つけました。頼光はその人並み外れて優れた顔つきを見て、坂田の金時と名づけて召(め)しかかえることにしました。
頼光の家来になった金時は、しばしば手柄(てがら)を立てましたが、中でも正暦5年、伊吹山に住む盗賊を征伐(せいばつ)したときには、一方の旗頭(はたがしら)となり、近くの地形をよく知っていたこともあって、一番乗りの大手柄を立てました。自分の生まれ育った坂田の地を荒す悪者は、自分の手で征伐(せいばつ)するのだと意気ごんで戦いました。
こうして、金時は先輩にあたる渡辺の綱・卜部季武(うらべすえたけ)・碓井(うすい)貞光と共に、頼光の四天王(してんのう)に数えられるまでになりました。
本庄・八条・七条の氏神は、足柄神社であるが、本庄は明治初年、鳥居を寄進するにあたり、八条の文太夫という学者が、神に足という字はもったいない、豊芦原の芦にしようと、この字を用いてより、芦柄神社となったということです。
(「長浜のむかし話」 長浜市老人クラブ連合会:編 参照)



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(最終更新日 : 1998/08/24)
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