「えびすさんになった太閤」



 浅井氏を亡(ほろ)ぼした信長は、秀吉に湖北の地を治(おさ)めるように命(めい)じました。秀吉は、湖岸に城を築(きず)き、今浜を長浜と改めました。まず道路を京都のように整え、有名な社寺を城下町に移(うつ)し、商人(しょうにん)や職人(しょくにん)をこの新しい町に住まわせました。

 300石分の朱印免税地(しゅいんめんぜいち)を設けました。また、土地の鎮守(ちんじゅ)である八幡宮(はちまんぐう)は、東西2町(約200メートル)、南北1町(約100メートル)の境内(けいだい)を免税(めんぜい)にしただけでなく、160石の神領(しんりょう)を寄進(きしん)しました。その他の寺院にもそれぞれ寺領(じりょう)を奉納(ほうのう)しています。また12組の曳山(ひきやま)は、わが子の誕生(たんじょう)を祝(いわ)って町民に配ったお金をもとにして建造(けんぞう)されたとも伝えられています。

 このように、長浜は秀吉によってつくられ、発展(はってん)してきた町です。町民たちはこの恩義(おんぎ)にむくいるため、秀吉がなくなって3年目の年忌(ねんき)にあたり、八幡宮のお旅所(たびしょ)に豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)をお祀(まつ)りしました。ご神像のほか、後陽成(ごようぜい)天皇ご直筆(じきひつ)の神号(しんごう)、秀頼公が8歳の時に書かれた神号をかざり、盛大なお祭りを行いました。

 ところが大坂城が落城(らくじょう)し、豊臣(とよとみ)氏が亡(ほろ)んで徳川の天下になりますと、家康は豊臣氏に関係のあるものはすべて消し去ろうとしました。困ったのは長浜の町民です。長浜の生みの親である秀吉公のお祭りができなくなるだけでなく、うっかりするとご神体もご神号も取り上げられ、焼かれてしまうかもわかりません。あわてた町民の代表は、ご神体とご神号を民家の奥深くかくして、年忌(ねんき)ごとの法要(ほうよう)をつとめていました。

 こうしたことが寛政(かんせい)4年まで140年余りも続きました。これではあまりにももったいないと、正式の神殿を造(つく)ることになりました。しかし、世はまだ徳川の時代です。表面(ひょうめん)は町内の酒飲(さけの)み仲間の発起(ほっき)とし、八幡宮のえびす神社をお旅所(たびしょ)に移(うつ)したいから、9尺(しゃく)四方の堂を建てさせて下さいと、奉行所に願い出て、それが許(ゆる)されると一気に3間(けん)四方のお堂を建ててしまいました。

 この事が奉行所にわかり、役人が取り調べにやってくることになりました。いろいろ話し合ったあげく、八幡宮に空き家になっているもう一棟(いっとう)のお堂をお旅所に運び、えびすさんのお堂はこの堂ですとごまかすことになりました。神殿は表と裏の二間に仕切りました。いよいよ神殿が完成し、ご神体をお遷(うつ)ししました。表の間にえびすさんを納(おさ)めました。そして深夜になって秀吉公のご神像をえびすさんの後方に安置(あんち)しました。表面はえびす神社ですが、本当は豊国大明神です。これで長浜町民の永年(ながねん)の念願(ねんがん)は実現しました。はじめてのえびす講、本当は太閤(たいこう)さんのお祭りは、寛政(かんせい)6年1月10日と10月20日の2回に行われました。今から190年ほど前の話です。

 これより先に同じようなことが知善院(ちぜんいん)でも行われていました。秀吉公の身代りには観音(かんのん)さまがよいということになり、知善院の境内(けいだい)に観音堂を建てました。正面には運慶(うんけい)の作といわれる木造の十一面観音像を安置し、左には秀頼公八歳の時の筆になる豊国大明神、右側には東照大権現(とうしょうだいごんげん)の名号(みょうごう)をかけて、毎月18日を法要(ほうよう)の日としました。18日は観音様も秀吉公も共に命日(めいにち)だったからです。表は秘仏(ひぶつ)として徳川幕府の目をごまかし、裏でこっそり供養(くよう)を続けたのです。

 なおご本尊(ほんぞん)は、当時の画家狩野永徳(かのうえいとく)筆の秀吉公画像を写して彫刻(ちょうこく)されたと言われています。また身代りの観音さまは、国の重要文化財になっています。

(「長浜の伝承」長浜市教育委員会:編 参照)


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(最終更新日 : 1998/08/27)
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