「浜ちりめん」は、宝暦2年(1752)に、長浜の北にある浅井郡難波村(なんばむら:びわ町)の中村林助(なかむらりんすけ)と乾庄九郎(いぬいしょうくろう)が技術を導入して始めたといわれています。

中村林助 生家 |
この難波村あたりは、姉川と高時川の合流点であるため、毎年水害に悩まされ、年貢米を納めるのにも困るほどの暮らしぶりだったといいます。そこで姉川の付近に水害に強い桑(くわ)を植えて、養蚕(ようさん)が行われました。人々は、この生糸(きいと)で生活を支えていたのです。ところが、この生糸の値段が下がり、村人たちのい生活は大変今までにないほどの厳しいものになりました。
林助と庄九郎が、この貧しい生活をなんとかできないものかあれこれ思案していたところ、大変耳よりな話を聞きました。それは、丹後(京都府)でちりめんを織り、農民たちの生活がよくなってきたという話です。この話を聞かせてくれたのが、上八木村(かみやぎむら:びわ町)へ蚕紙(さんし)を買いにきていた丹後(たんご:京都府北部)・宮津の商人庄右衛門(しょうえもん)でした。二人は、いろいろ話を聞いているうちに、ちりめん織を農閑期(のうかんき)の内職にしてみようと考えました。
二人は、まず庄右衛門を雇って、妻や娘にちりめんの技術を習わせました。さらに、村の女性にも習わせ、宝暦2年12月、彦根藩北奉行所の許可(きょか)を受けて、生産を始めたといいます。
姉川付近の生糸は良質だったので、織りあげたちりめんを京都へ出荷(しゅっか)したところたいへん評判(ひょうばん)がよく、売れました。
しかし、京都には、これ以前からの西陣(にしじん)という絹織物の一大産地があります。西陣の業者たちは、市場の独占権(どくせんけん)を与えられていましたが、10年ほど前から丹後(たんご)や桐生(きりゅう)といった地方産の絹織物の進出に頭を痛めていました。延享(えんきょう)元年(1744)には、奉行所に田舎絹の禁止(きんし)を訴え出たほどだったのです。
当然、西陣の業者たちは、「浜ちりめん」(当時は近江ちりめん)の進出にも反対運動を起こしました。そのため、林助と庄九郎は、ちりめんを売ることができなくなってしまいました。
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(最終更新日 : 1998/11/28)
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