豊公園(長浜城)

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長浜城址碑
 長浜の城は延元元年(1336、守護職佐々木高氏(京極道誉)が、北陸の南朝方に備えて、この地に出城を築いたのがはじまりといいます。
 以後、佐々木氏の家臣であった今浜氏あるいは上坂氏が守将として在城しました。しかし、上坂氏が浅井氏に追われ、以後、廃城となりました。

 天正元年(1573)、浅井氏が織田信長によって亡びると、そのときの功により、羽柴秀吉(当時37歳)は、浅井の旧領湖北3郡12万石の領主となりました。

 秀吉は、小谷が山上で不便であるのに比べて今浜の地が要衝(ようしょう)であることに気づき、天正2年(1574)1月より、築城を始めました。
 古城を拡げ、周囲に湖水を引いて堀をめぐらし、門を4か所に建て、3層の天守閣を造り、小谷の城下町を移しました。
 完成したのは、天正3年暮れか4年早春で、このとき、地名を長浜と改めました。

 秀吉は、天正10年6月に本能寺の変が起こるまでこの地の城主でした。変後、秀吉は姫路城に移り、城は一時柴田勝豊に譲りましたが、12月には再び秀吉の手に帰りました。
 天正11年4月の賤ヶ岳の合戦には、秀吉は、ここを根拠地として勝利を得ました。
 天正13〜18年は山内一豊(2万石)が在城しました。
 その後、城を修繕し慶長11年(1606)には内藤信成(4万石)が来城しました。
 しかし、元和元年(1615)、信成子の信正が摂津高槻城に移って廃城となりました。
 そして翌年から、井伊氏の彦根城築造のために、長浜城の建造物や石垣の大半は彦根城に移されました。

 大通寺の台所門、知善院の表門、彦根城の天秤櫓、西の丸三重櫓は長浜城の遺構です。

 昭和58年(1983)4月、長浜城は新たに造築され、歴史博物館としてオープンしました。

城の正面(東側)

南東から天守閣をのぞむ

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(最終更新日 : 1998/08/21)
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