「もろがみの岡」



 それは遠い遠い昔のこと。神々が集まって、日本の国造(くにつく)りについて、いろいろと考えられ、どんなにしたものかと、みんなで相談(そうだん)されました。まず、大きな山と湖を造ろうということにきまりました。

 ちょうどそのころ、世にも稀(まれ)な怪力無双(かいりきむそう)の大男、伊富貴弥佐夫呂(いぶきやさぶろ)と名のる者がいて、この神々の話を耳にしました。

 「ようし、神々よりも先に、このわしが、一夜のうちに、それをりっぱに造ってみせよう。」

と言いはなつや、さっそく大きな簀(もっこ)を作って、一生けんめい土持をしました。

 そこで、掘(ほ)った所が琵琶湖(びわこ)となり、土を盛り上げた所が伊吹山(いぶきやま)になったのだというのです。

 しかし、もう一息で自分の思うとおりの、りっぱな山と湖ができるというせとぎわに、その望みもかなわず、東の空がほの白く明けそめてきました。一夜のうちに造ると言いはなったのも無念(むねん)、もうこれまでと、最後の一もっこの土を、その場に捨(す)てて、東の山の奥へと消え去りました。

 このとき、捨てられた山の土が一簀山(いっきざん)で、後に田村山と呼ばれるものであり、ぽんぽんとはたき落としたものが、足中山と言われています。この二つの山に続いて、東へぽつぽつと、土持の最中(さいちゅう)にこぼれ落ちてできたといわれる山々を、現在七岡と呼んでいます。
 以上が国造りの話ですが、諸神(もろがみ)の岡とは、この田村山を指して言うのです。
 昔、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が名越(なごし)へ行幸(ぎょうこう)されたときに、

「七岡や、ああ七岡や、七岡や。」

と、この美しい緑なす豊かな山々の景色に、しばし見とれられたとのことです。横山の頂上(ちょうじょう)からの眺(なが)めは、句にも歌にも賞(め)でられるだけのねうちのあるものです。

 ちなみに、現在の七岡は、西から東へかけて、多々岡(田村山)、中岡、亀岡(かめおか)、松岡、四面岡(しめおか)、男岡(おおか)、黒岡と名づけられています。

(「長浜のむかし話」 長浜市老人クラブ連合会:刊 1977/02 より)





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(最終更新日 : 1997/10/26)
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