平成11年7月22日
各 位
国友鉄砲の里資料館
市立長浜城歴史博物館
国友鉄砲の里資料館(館長 国友昌三)では、下記の通り特別展を開催致します。
記
1 | 展覧会名 | 特別展 タタラと鉄生産ー国友鉄砲の原料を出雲にさぐるー |
2 | 期 間 | 平成11年7月28日(水)〜8月29日(日) 但し、毎週月曜日は休館 |
3 | 会 場 | 国友鉄砲の里資料館 (長浜市国友町534番地) |
4 | 入館料 | 一般 300円 小中学生 150円(但、20名様以上は2割引) |
5 | 開館時間 | 午前9時〜午後5時(但し、入館は午後4時30分まで) |
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1.記念講演会/入場無料
- 演題 「鉄の村」の歴史と国友鉄砲
- 日時 8月22日(日) 午前10時 より
- 講師 吉田村鉄の歴史博物館 館長 坂本令治氏
- 会場 国友町会館
2. ビデオ『和鋼風土記』鑑賞会/入場無料
- 日時 8月6日(金) 午後7時30分 より
- 会場 国友町会館
国友鉄砲とタタラ
国友鉄砲の原料である鉄は、主に中国地方のタタラ鈩で生産されたものであった。その中でも、特に出雲産の鉄は最高級品と言われる。国友鍛冶たちは出雲まで、わざわざ鉄の買い出しに行ったこともあった。また、有能な鍛冶師で、国産初の反射望遠鏡の作者として知られる国友一貫斎は、鉄砲の鉄には出雲産が最上と書き残している。一方、出雲の鉄山師・櫻井家の史料には、国友鉄砲鍛冶の鉄板注文書が現存することが明らかになり、出雲と国友との関係はより詳細にたどれるようになった。
展示のポイント
今回の特別展は、国友鉄砲と関わりが深いタタラによる鉄生産にスポットをあてる「炉」の緻密な構造、そこで働く人々の鉄への執念、それが国友鉄砲の性能を支えていたことを、少しでも明らかにできたらと考える。展示は、次の内容を実物資料と写真パネル展示で紹介する形となる。
- 国友鉄砲の原料が、出雲を中心とする中国地方から供給されたものであることを、文献史料で証明する。
- 国友鉄砲鍛冶は、鉄をただ生産地から購入するのみでなく、その製造方法や質について学び、かつ十分な知識を持っていたことを明らかにする。
- タタラによる鉄生産が如何にしてなされたのか。使われた道具、それに絵画・写真などで多角的に説明する。
- 出雲に残る製鉄関連史跡を紹介する。
櫻井家と鉄生産
櫻井家は、松江藩が鉄の生産統制のため定めた9家の鉄師(鉄生産業者)の1家で、出雲を代表する鉄山師である。その祖先は、戦国の武将塙団右衛門で、大坂夏の陣で団右衛門が討ち死にすると、嫡男直胤が母方の姓「櫻井」を名乗り安芸国広島城の福島正則に仕えた。福島家が改易となると、広島の郊外可部郷(現在の広島市安佐北区)に住み鉄山業を営む。
正保(1644〜48)の頃、第3世直重は出雲国(現在の島根県)仁多郡上阿井の地に移り、屋号を「可部屋」と称し、“菊一印”の鉄を創り出した。第5世の利吉は松江藩から「鉄師頭取」の職に任命され、その後も歴代当主はこの職に任ぜられ、多くの鉄山(タタラ場を中心とした鉄生産地)を取りしきった。
櫻井家住宅と可部屋集成館
櫻井家住宅は、鉄生産を行っていた当時のままの建物で、島根県指定文化財。享和3年(1803)の第7代松江藩主松平治郷(不昧)を最初として、歴代藩主が前後6回にわたって訪れ、その時使用された調度品も現存している。高所から流れ落ちる瀧が印象的な庭園も、松平不昧を迎えるために作られたものである。
この櫻井家に伝わった美術工芸品やタタラ関係の歴史資料は、隣接する可部屋集成館に展示・収蔵されている。その中で特に注目されるのが、国友鍛冶からの鉄砲材料となる板鉄の注文書である。国友鍛冶がその原料を出雲から得ていたことは、一貫斎の記録などから容易に推定できるが、その事実を出雲側から確認できる唯一の資料である。
タタラと鉄生産
出雲では古代以来鉄生産が行われたきたが、近世に入った頃から、それまでの野ダタラから永代ダタラへと変化したと言われている。中世までの野ダタラは、野外で簡単な炉を造って行われていたが、永代ダタラは炉の上に高殿と呼ばれる建物を造り、湿気を防ぐための地下構造も構築された。
さらに、いくつかの新技術がタタラでの製鉄法を確立させた。まず、江戸時代の初めには、新たな砂鉄採取方法である「鉄穴流」が編み出され、大量の砂鉄の確保が可能になった。同じ頃、タタラ炉に風を送り込む天秤鞴が出現し、江戸中期には炉から出された鉄塊を粉砕する装置・大銅が考案され、その生産過程は完成を見るのである。
タタラ場と山内
鉄生産は、決してタタラのみで完結するものではなく、その過程はおよそ3つの工程に分けて見ることができる。
1.鉄の採取、炭や薪の採取を含めた原材料の調達、2.高殿タタラの築鈩と操業、3.生産されたケラと銑の選別、精練である。それぞれには、1.鉄穴流頭 2.村下(築鈩と鈩操業の責任者) 3.鍛冶大工(大鍛冶の責任者)がおり統制がなされ、さらにその全体を櫻井氏や田部氏などの鉄山師が総括した。彼らは、その労働に従事する人たちの家族を含めて、「山内」と呼ばれる一つの集落を構成していた。
タタラの構造
タタラ鈩の構築と操業は炎と人の壮絶な闘いであった。炉の地下には深さ3・4メートルに及ぶ鈩床を造ることから始まる。鈩床には、石や砂利を何層にも敷きつめ、排水管や湿気排出口を設置した、複雑な地下構造が造り出された。その上に鈩が構築される。土で炉を築き、木炭を燃やし、そこへ数回に分けて砂鉄を投入し、鋼と鉄が生産される。鈩は1回の操業ごとに破壊されて生産物が取り出される。
「一代」と称された1操業期間は、3昼夜から4昼夜。総指揮をとる村下や天秤鞴を踏む番子などは、鈩の周りに付きっ切りで炎の具合を見守った。この芸術の域に達した製鉄方法も、近代に入り絶滅の危機に瀕していた。タタラ場での仕事は、村下の口伝により伝えられるものだが、西洋式の高鈩が導入されると、伝統的なタタラ操業に従事する者が少なくなっていったからである。
製鉄技術の復元
昭和44年、日本鉄鋼協会は島根県吉田村の菅谷タタラで、このタタラ製鉄法を再現し、その技術を蘇らせた。菅谷タタラは、現存する唯一の高殿で、国指定重要有形民俗文化財に指定されている。復元の作業には、生存していた4人の村下が参加した。吉田村の「鉄の歴史博物館」では、その時使用されたタタラ操業の道具が保管されている。
出陳資料
目録
番号 | 資 料 名 | 員数 | 法 量(cm) | 所蔵 |
1 | 御鉄砲三拾目玉真鉄注文書 11月23日付 | 1通 | 16.5×34.1 | a |
2 | 御鉄砲真鉄注文ニ付国友徳左衛門等書状 10月15日付 | 1通 | 16.6× 51.3 | a |
3 | 御鉄砲地板鉄諸雑用目録 寛政2年7月. | 1冊 | 18.6× 26.6 | a |
4 | 絵符(御用鑑札) | 1枚 | 36.0× 6.9 | a |
5 | 中板鉄−複製− | 1枚 | 54.6×14.9 | a |
6 | 巻板(藤巻)−複製− | 1枚 | 78.6× 4.4 | a |
7 | 桜井家々相図 | 1枚 | 96.0×107.0 | a |
8 | 仁多郡内鈩・鍛冶屋図 | 1枚 | 80.4× 55.6 | a |
9 | 下駄(製鉄用具) | 1足 | 25.0× 11.0 | b |
10 | 火挿し(製鉄用具) | 2本 | 長サ 79.0径 4.0 | b |
11 | 釜がい(製鉄用具) | 1本 | 長サ 115.8幅 13.9 | b |
12 | 鉄木呂(製鉄用具) | 2口 | 長サ 18.4径 6.0 | b |
13 | 木呂竹(製鉄用具) | 1本 | 長サ 60.6径 3.7 | b |
14 | すき(製鉄用具) | 1本 | 長サ 133.7幅 28.6 | b |
15 | 小手ほど(製鉄用具) | 1本 | 長サ 68.0 | b |
16 | 包丁鉄(製鉄製品) | 1枚 | 55.8× 10.6 | b |
17 | 銑(製鉄製品) | 1枚 | 55.0× 11.9 | b |
18 | 玉鋼・ノボセ鋼(製鉄製品) | 3塊 | 径 12.0 | b |
19 | 真砂砂鉄(製鉄原料) | 1袋 |
| b |
20 | 赤目砂鉄(製鉄原料) | 1袋 |
| b |
※所蔵者 a=可部屋集成館蔵 b=吉田村鉄の歴史博物館蔵
1. 絵符 1枚
可部屋で生産された鉄砲用板鉄を、国友まで輸送する際に付けた荷札である。松江藩の役人である天野源兵衛の名前と、国友鉄砲鍛冶年寄である国友徳左衛門、それに「地鉄師」と記された櫻井三郎右衛門の名前が墨書されている。裏面には、葵の紋と「御用」の文字が見える。
奥出雲で生産された鉄砲の地鉄は、一度日本海側の宇竜・安来などの港に運ばれ、その後日本海航路で敦賀へ、または西廻り航路によって大坂に運ばれ、国友まで到達した。本資料は、江戸時代の鉄生産が松江藩の厳しい統制下で行われていたことを示すと共に、奥出雲の鉄生産と国友の鉄砲生産を直接関連づける資料として貴重である。
2. 櫻井家々相図 1枚
可部屋の当主・櫻井家の江戸後期の屋敷の状況を描いた絵図。家相図は、家の位置・構造などから、その家に住む人の吉凶を占うために使われた図面。享和3年(1803)に松江藩主松平不昧を迎えるために造られた庭園が鮮やかに描かれ、屋敷の構造も現存する母屋などと大きな変化はない。ただし、母屋の前に2軒の大鍛冶場(写真では1軒のみしか構図に入っておらず、「鍛冶屋」と表記されている)が描かれているのは注目してよい。この建物は現存しないが、タタラ生産で出来上がったケラの一部や銑は、大鍛冶の左下場・本場の2工程を経て、板状の包丁鉄に仕上げられる。刀剣の原料となる和鋼は、この大鍛冶を経ないで塊状で出荷されたが、鉄砲の原料である和鉄は、この大鍛冶によって板状に加熱鍛錬されて出荷された。もちろん、鉄砲に使う鉄の善し悪しも、この大鍛冶の腕前によって大いに左右された。その意味では、鉄砲生産にとって大鍛冶の存在は、タタラ操業と同じぐらい重要な位置を占める。
3. 鉄吹方聞書(写真パネル展示) 1冊
国友一貫斎文書中に伝来した、タタラ製鉄方法についての覚書。おそらく、『大小御鉄砲張立製作控』の著者として有名な国友一貫斎(1778〜1840)の著になるものであろう。 砂鉄の質や炉の築き方について解説が付されており、鈩の構造や天秤鞴の図も描かれている。鉄砲鍛冶師の原料生産への並々ならぬ関心が伺われて興味深い。この他、展覧会ではタタラ鈩での鉄生産過程や出雲に残る製鉄遺跡などを、写真パネル20枚あまりを使用し紹介する。
本件に関するお問い合わせは、国友鉄砲の里資料館(tel.0749-62-1250)の国友(館長)、または市立長浜城歴史博物館(tel.0749-63-4611)の太田までお願い致します。


This page was last updated on 1999/07/26.
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