平成12年1月
各 位
国友鉄砲研究会
市立長浜城歴史博物館
よ み が え っ た 望 遠 鏡
〜国友一貫斎製作反射望遠鏡の複製ができるまで〜
この度、国友一貫斎が天保年間(1830〜44)に製作した反射望遠鏡の複製が完成しましたので、その詳細をみなさんにご報告申しあげます。
1 製作者
廣瀬 一實さん
昭和16年4月1日生(58歳)
自営業、国友鉄砲研究会・会長
協力者:國友武宏さん(国友鉄砲研究会・会員)
2 複製の原資料
反射望遠鏡 国友藤兵衛一貫斎製作(市立長浜城歴史博物館蔵)
銘 天保七丙申歳中秋日 一貫斎 眠龍能当(花押)
総高 400mm/鏡筒長 342mm/倍率 約70倍
但、主鏡・副鏡・レンズのデータは、長野県上田市立博物館蔵の反射望遠鏡(国友一貫斎製作)を基にした。
3 製作の目的
今回の作業では、その製作工程も忠実に再現することを大切にした。一貫斎と同じ工法を取ることにより、江戸時代の金工技術の水準を知ることができ、一貫斎の苦労も追体験できるからである。このように、一貫斎の望遠鏡製作方法を明らかにし、江戸時代の技術を再現することが、複製の第1の目的である。
今回完成した反射望遠鏡は、「国友鉄砲の里資料館」での展示に活用される。また機会があれば、国友町などで開催される天体観測会に持参し、参加者に月や星を実際に観測してもらうことに使用する。このように、国友一貫斎の顕彰活動に利用するのが、複製の第2の目的である。
4 原資料の構造と工法
国友一貫斎製作の望遠鏡は、鏡筒の前後に大小2枚の鏡を設置し、そこで作られた像を、接眼部の2枚のレンズで拡大して対象物を観る構造となっている。鏡筒は架台部で支えられている。以下に、部分ごとの構造を略述する。
鏡筒
厚さ3mmの黄銅(真鍮)板を、真金に巻き円筒形に曲げ、下部で銀鑞付けして仕上げられている。この方法は火縄銃の筒を製作する方法と同じで(張立、それを援用したものと推定される。筒の内はモミシノで削り、外はヤスリ・セン・砥石で研磨した。円筒部の最奥には、中心に20mm程の穴(接眼部を取り付ける部分)が空いた直径60mmの主鏡(放物面の凹面鏡)が置かれている。
副鏡
直径13mm程の楕円面に近い凹面鏡。鏡筒の上部に仕込まれた焦点調整機構から黄銅の1本足が伸び、そこに付けられた鏡板にネジで取り付けられている。また、最近の‘国友望遠鏡調査チーム’注の研究により、鏡の成分(主に銅と錫の合金)は一般の鏡よりも、錫の比率が高い特殊なものであることが判明した(主鏡も同じ)。
焦点調整部
副鏡を移動させてピントを合わせるための装置。鏡筒の上部に長ネジを置き、それを回すことで、副鏡が付けられた長方形の板を前後させ焦点を合わせる。長方形の板は鏡筒をはさむ形で2枚あり、内側は鏡筒と同じ曲率に作られている。
接眼部
この部分も2枚〜3枚の厚い黄銅を曲げて、鑞付けして製作してあり、鏡筒と作り方は同じである。全長70mm程度で前後2つに分かれ、前方のレンズ(視野レンズ)は両凸面レンズ、後方のレンズ(眼レンズ)は凸メニスカスレンズが収納されており、後部は付属のゾンガラス(赤色フィルター)と交換可能。接眼部の鏡筒への取り付つけは、差し込むだけの簡単な構造になっている。
照準
対象物を視野に入れるための目安になるもので、鏡筒の前後に1つずつ計2つが取り付けられている。一貫斎は前者を「日」、後者を「月」と呼ぶ。前後とも雲形の「彫り」をほどこした脚部に、ドーナツ形の鉄製円板が銀鑞付けされている。
架台部
鏡筒を支える部分。4本の「猫足」の形をした脚部を持ち、そこから上部に伸びる支柱の上方に、45mmの円板5枚を組み合わせた「雲台」が置かれている。この雲台を上下させることで、対象物を望遠鏡の視野に入れる。左右方向への移動は、ロクロのように回転する台上に、望遠鏡を置くことで行ったのではないかと推定される。
5 複製の製作過程
平成5年〜6年頃
一貫斎望遠鏡につき複製製作の構想をいだく。
平成10年8月9日
「国友鉄砲の里資料館」主催の講演会『国友一貫斎と天体観測』で、京都大学助手の冨田良雄氏の講演を聞き、複製の製作を決断する。
平成10年12月
接眼部(筒のみ)が完成する。それまでに、材料を調達し、製作方法について国友鉄砲研究会のメンバー(富岡貞治氏、梅田哲邦氏、吉田一郎氏ら)と議論・検討を行う。
平成10年12月12日
‘国友望遠鏡調査チーム’の冨田良雄氏と、原資料の接眼部の採寸を行う。
平成11年1月24日
鏡筒部分を筒形にし、鑞付けを終了する。
平成11年2月19日
大阪府堺市の三宝伸銅工業株式会社において行われた‘国友望遠鏡調査チーム’の指導による主鏡・副鏡の鋳造に立ち会う。
平成11年5月22日
国友武宏氏共に、原資料の最終的な採寸を行い、雲台の形状を確認する。
平成11年7月
架台部の「雲台」が完成する。
平成11年8月
‘国友望遠鏡調査チーム’から、主鏡・副鏡・レンズ2枚の提供を受ける(レンズは‘国友望遠鏡調査チーム’の冨田良雄氏によって研磨ずみ)の提供を受ける。
平成11年11月13・14日
長野県小川天文台で、中村和幸氏(日本特殊光機製作所)から主鏡・副鏡の研磨方法を教わる(中村氏は‘国友望遠鏡調査チーム’に一員で、金属鏡の研磨について研究をかさねていた)。その後も、中村氏から副鏡の研磨につき指導を受ける。
平成11年12月
主鏡と共に副鏡の研磨を一応終了。反射望遠鏡に収納し、月・木星・土星を観
測する。
6 製作過程における苦心談
鏡筒の製作
一貫斎の望遠鏡の鏡筒については、当時パイプ状の既成品がある訳ではないので、黄銅の板を円形に曲げて製作した。しかし、この技術は現在失われているため、その再現には非常に苦労した。実際に製作することにより、円形に板を丸めるためには真金を使い、接合部を斜めに切るなど、特殊な技術が必要であることが判明した。接合部を斜めに切ることで、モミシノによる筒内の切削がしやすくなるのである。
多数のジグ(治具)の製作
望遠鏡は副鏡を取り付ける板や「雲台」の円板など、多数の部品から構成されている。これらを製作するためには、部品の大きさや角度を合わせるための道具であるジグを、40点余りも製作した。ジグ製作には、国友隆夫・辻村邦雄・高橋実氏(いずれも国友町在住)の協力を得た(10数点は自作)。
「雲台」の製作
「雲台」は5枚の円板を組み合わせ、中央をネジで止める形で構成されているが、軽くネジを締めることで固定できる構造に仕上げるのに苦労した。また、「雲台」を支柱に取り付ける方法も再現に苦慮した。前者は、円板の中央を少し削り取ることで克服した。後者は、円板にピンや角をつけることで、確実に接合できることが判明した。
7 製作後の印象
一貫斎は、江戸成瀬隼人正(尾張藩家老)宅で見た西洋製の反射望遠鏡を基に、望遠鏡を製作した。したがって、外形についてはある程度の手本はあったが、その製作方法については、まったく手本なしで試行錯誤の上、実際に観測できる反射望遠鏡を完成させたことになる。今回の複製の製作で、その過程において多くの難関が存在したことが想像でき、一貫斎の忍耐力に改めて感銘すると共に、鍛冶技術を応用した高度なテクニックに驚嘆した。
<注>
国友望遠鏡調査チーム
京都大学の冨田良雄助手を代表とし、12名の分野が異なる研究者からなるグループ。国友望遠鏡の鏡が、なぜ150年以上もたった現在に至るまでも曇らないかを解明するために、チームによる研究を続けてきた。その研究成果は、「國友藤兵衛製作グレゴリー式反射望遠鏡の学術調査」(『国立天文台報』第4巻、1998年)として発表されている。今回の複製に当たって、主鏡・副鏡(成分データを含む)やレンズの提供を受けた。
国友一貫斎と反射望遠鏡
国友藤兵衛一貫斎(1778〜1840)は、坂田郡国友村(現在の長浜市国友町)の鉄砲鍛冶年寄脇の家に生まれた。有能な鍛冶師で、火縄銃の製作方法を記した『大小御鉄砲張立製作控』を著した他、気砲(空気銃)や懐中筆(毛筆ペン)など数々の発明品を世に送った。
文政3年(1820)頃、江戸の成瀬隼人正宅で、オランダ渡りの反射望遠鏡を見たが、それを手本として同型の望遠鏡製作に挑む。製作は天保3年(1832)から始め、翌年には第1号機を完成させている。国産初の反射望遠鏡となった。
自作の望遠鏡で月や惑星、それに太陽黒点などの観測を続け、その観測図が『国友一貫斎文書』(長浜市指定文化財)の中に多数現存している。特に、計157日に及ぶ太陽黒点の連続観測は評価が高い。製作した望遠鏡は、4台( 1.市立長浜城歴史博物館蔵、2.国友一貫斎家蔵、3.上田市立博物館蔵、4.彦根城博物館蔵)の現存が確認されている。
本件についての問い合わせ先
国友鉄砲研究会(Tel.0749-62-7664、廣瀬宅)
市立長浜城歴史博物館(Tel.0749-63-4611、担当:太田)
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