成田重兵衛(思斎 [しさい]



養蚕技術・農家経営を合理的・科学的に説いた思斎


相撲町の東外れにある顕彰碑
 成田重兵衛(思斎)は、江戸時代末期に相撲(すまい)町に住んでいましたが、養蚕(ようさん)について研究し、養蚕が地域の農民にとって大変有益(ゆうえき)であることを、文化11年(1814)に「蚕飼絹篩大成(こがいきぬふるいたいせい)」という本に著しました。
 しかし、残念なことに、この本が発行されたのは、70年も後の明治17年のことで、「養蚕絹篩(ようさんきぬぶるい)」という書名でした。この本は、養蚕技術・農家経営を合理的・科学的に説(と)いているとして、高い評価(ひょうか)を得ています。

 さらには文化7年(1810)には、自ら養蚕所を建てて、地域の農民に桑の木の育て方や蚕(かいこ)の飼い方を教えました。

 姉川沿いの村や湖辺の村は、昔から洪水に悩(なや)まされ、土地はやせていました。思斎は、そうした砂地にも適(てき)し、水害にも強い桑の木の品種改良(ひんしゅかいりょう)に取り組みました。そうして、作り上げたのが「細江(ほそえ)」という品種で、葉もよく茂りました。

 こうして、養蚕が大変盛んになり、また、その蚕から取れる絹糸を使った縮緬(ちりめん)産業も発展しました。


「蚕飼絹篩大成」
 しかし、長浜城跡の開墾(かいこん)を計画したため、彦根藩からとがめられました。そのため、自分に関する資料を全て処分(しょぶん)して、どこかに逃亡(とうぼう)したといいます。(一説では、丹後(たんご)の宮津に隠れたともいわれていますが、くわしいことはわかっていません。)

 ところが、明治時代になって、殖産興業(しょくさんこうぎょう)が、国の大きな方針(ほうしん)となりました。明治19年、東京で第2回内国勧業(かんぎょう)博覧会が開かれ、滋賀県の勧業委員たちが上京したとき、農業書専門店で「養蚕絹篩(ようさんきぬぶるい)」を見つけました。そして、それまで県内ではほとんど知られることのなかった思斎の業績(ぎょうせき)の素晴らしさに気づきました。
 そこで、県の役人たちと相談して、翌年、思斎を追賞(ついしょう:亡くなった方を表彰)しました。
 こうして、思斎翁の業績の顕彰(けんしょう:隠れた功績を広く知らせること)しようというムードが高まり、明治24年4月には、顕彰碑(けんしょうひ)が建てられました。

 現在、「成田思斎翁彰徳会」によって、毎年12月の初め頃、碑前祭(ひぜんさい)が行われています。


[最初のページにもどる]


(最終更新日 : 1998/11/26)
Copyright (C) 1997. by Hideo Hirobe.