どうしてついたの? この町名
──市内北部(北中学校 校区)の各町名の由来──
このページは、昨年(平成8年) の文化祭で、私が担任していた1年6組の子どもたちが調べた内容を掲載しました。尚、これは、
長浜市立北中学校のホームページ
内でも紹介しています。
※古いいわれがあると考えられる順に並んでいます。
相撲(すまい)町
奈良時代
昔朝廷で行なわれた相撲の儀式の費用をまかなう田地であったことからその名が出た。
相撲の節会(せちえ)とは、奈良、平安時代に、群臣に宴を賜う儀式である。
相撲とりは、諸国へ使を出して集められる。
毎年7月に、宮中におよて、褌の上に、狩衣、袴を着て取り組みを行なった。
国友(くにとも)町
平安時代
織豊期から、鉄砲の生産で知られる。
国友の由来は、はっきりわからないけど、中世福永庄のうちで、文明18年11月3日の角氏棒行人奉書に「福永国友」永正14年8月日の米布施御影供新寄進帳に「国友」と見える。
保田(ほうで)町
平安時代
保とは、もと5戸を1組とした。いわゆる隣組のことで最末端の行政組織である。
これが地方の区域の名称に転変してゆくのである。普通民間で開墾した私有の団地をいう。
保田もこのような保がもとになった地名であろう。市内には同様な地名として、旧北郷里府の保多があるということである。
口分田(くもで)町
室町時代
「口分田」という文字は、古代土地制度の「口分田」に由来するとされる。
「口分田」は律令制の班田制の田種を示す用語に等しく、また「江州佐条南北諸国帳」には、口分田彦右衛門という土豪の存在を伝えている。
しかし、その起源を確定することは、現在のところできない。
新庄寺(しんじょうてら)町
室町時代
福永新庄と神照とから、その名が出た。
新庄は、新しい荘園という意味で、各地によくある地名である。ここの場合は福永庄の新庄であったので、この名が出来たらしい。さらに寺とついているのは、この地に神照寺があったことによっている。
新庄馬場村の東の北に位置。単に寺村とも称された。中世は福永庄のうち「神照寺記録」の文明元年1469分に「寺村」「寺村河ハタ」などが見える。神明神社、熊野神社じゅんこう寺、真言宗智山派の浄重院一乗院はんにゃがある。
小沢(こざわ)町
室町時代
室町時代にできた町名。
村の由来は沢には湿地、小川などの意味がある。小沢から中沢にかけて旧姉川の流路といわれる小川がある。また中沢の東南には湧水もあり湿地になっている。このことが沢のおこりだろう。世帯は135、人口は470。八坂神社、真宗大谷派の憶念寺がある。
川崎(かわさき)町
明治時代
明治23年〜昭和18の神照村の大字名。
大正14年の戸数37、うち27が農家。
昭和18年現行の長浜市川崎町となる。
森(もり)町
江戸時代
森の昔の集落は、現在の集落の北約500mのあたりにあった。
本屋敷という小字名が残っており、森林になっている。このことに関係している。
森村・・・江戸期〜明治23年の村名。
坂田郡のうち。中世の福永荘に属す。
森・・・・明治22年〜昭和18年の神照村の大字名。昭和18年現行の長浜市森町となる。
下之郷(しものごう)町
江戸時代
下之郷がつくられたのは、江戸から明治にかけてできた村。
3つの村が集まって、下之郷という。
「神照寺(じんしょうじ)記録」の文明元年分に、井尻が見える。
寛永石高帳に下の とみえる。安福寺の由来は不明である。上之郷に対する地名かと思われるがどこが上なのかわからぬ。
井水の末尾に、位置したことによる。
下之郷の之は、下の郷、下ノ郷、下之郷と変化。
今(いま)町
江戸時代
起源は、よくわかっていないが、一説に今村氏その地を領有していたことから、その名が出たというが、これは逆で地名用語としては新しいという意味があり、新しく開墾などにより開かれた村と考えるべきだろう。
地元では国友の住人が開墾して移住し、新しくつくった村ではないかと思われる。
昭和18年4月1日に成り立つ市の北端。北部には、東浅井郡虎姫町、北から東は東浅井郡浅井町に接し、西に北陸自動車道が通る。北から中央を経て姉川が東へ曲流する農業地域。
寺社には真宗大谷派の蓮沢寺・岩隆寺、八坂神社がある。
榎木(えのき)町
明治時代
榎木町は、旧南郷里村に属し地名の起こりは、伝えられる所では昔の神明神社の境内に、樹齢1000年を越す榎の木があったことによっているということ。
醍醐天皇の頃、延長8年(93。)7月に、勅定によって、この榎の木樹の下に、五尊神が観請され、これを中心に多くの社坊がつくられた。
名残は、小字名として今も残っている。新光坊、大正院、真昌寺、東禅寺など全部で数十坊があったものと思われる。≪今も榎木の郷里神社には、榎の木があるそうです。≫
源頼朝の祈願所となったりして隆盛をきわめたりしたこともあったけれど、幾度も火災にあい、姉川の合戦の兵火のために、ことごとく廃絶してしまった。榎の大樹古、安永年間(177。年大)まではその根株を残していたけどなくなってしまった。
山階(やましな)町
明治時代
「乾」と「辰巳」とが、一つになって、(明治7年)一村となり、「山階」と改名された。乾は南北に、辰巳は東南の方面に存在していた。
山階は中世、この地域を山階荘と呼んだことに基づいている。山階の南部に位置する「伊吹神社」はこの荘園の、名残であったという。
山階村は、水陸運輸もよく水利もよく、何の心配もなかった。
明治22年〜昭和18年の神照村の大字名。大正14年の戸数43、うち農家が38戸だった。
三ツ矢元(みつやもと)町
明治時代
町内の多くの地域が旧三ツ矢町に属しており、どうしても三ツ矢町の名を残したいという意向が強かったがそれより早く、次の現三ツ矢町が届け出を済ませていた。そこでやむを得ず、旧三ツ矢の中心であったという意味をもとめて三ツ矢元としたもではないだろうか。ところでこの命名は「類似の町名は使用しない」という原則から、はずれることになるが、住民の希望が特に強かったのであえて認められたのであろう。
三ッ矢(みつや)町
明治時代
もと三津屋町、三津屋村と北出町であったが、明治になって合併して三ッ矢町となった。
三津屋とは三軒屋の意味であるから、始め2軒3軒の人家があって、だんだん町ができたことによっているのかもしれないが、北出町は町の北方にあり、御朱印地(年貢色除地)の外に出ていることから、命名されたのではなかろうか。成立昭和18年4月1日世帯311、人口1092人。
神照(かみてる)町
明治時代
昔は新庄東、新庄西と別呼しちと改名された。この地のあたりは福永の庄といい旧条里では3条と4条にあたっていた。3条の方を福永庄地方、4条の方を福永庄南方または単に南方と称した。新庄東と新庄西の地域は福永庄南方にあたっているので、南方の名称がついたものと思われる。
しかし市制施行の時に旧長浜町の南方町と混合のおそれがでてきたため、神照と改称された。
この神照は神照村にちなんでつけられたものである。
神照町は、昭和18年、4月1日にできた。
十里(じゅうり)町
明治時代
長浜市街の1889年(明治22年)まで十里村であった。坂田郡条理の4条十里をしめることが名称の由来。旧村域が条里制の一里方町域と一致した。三ノ坪にあたる方一町区画内の集落に4行8門32戸分の計画「1889年神照村大字1943年長浜市の町となる。
世帯199万0808人(1982年)
八幡中山(やはたなかやま)町
昭和時代
昔、北野村と行ったが、京極氏の家臣中山氏がこの地を領有したために中山の名称が出、さらに幡荘に属するので八幡中山と呼ぶようになったという。
昭和18年4月1日までは坂田郡神照村大字八幡中山の一部であった。世帯数274戸、人口は965人である。
祇園(ぎおん)町
昭和時代
長浜市祇園、長浜市の両端に位置し、東は県道(北陸脇道)が通り、西は琵琶湖に接する農村地帯であったが、市の発展にともない、工場や、住宅が建設され、しだいに市街化されつつある。古く京都の祇園社の領地となっていたことが地名の由来である。氏神として、八地神社がおかれているのは、その証拠である。祇園は京都東山の八坂神社の別名と、いわれ、同じ地名は、各地にあるが、いずれも祇園の神をまつってあることによる。
末広(すえひろ)町
昭和時代
行く末の発展を祈願して付いた新生地名市の西部、東は北陸線、西は琵琶湖に面する農業地帯。中央を県道森長浜停車場線が通る。日本ミラニューズ工業・江州紙業の工場があり、また天理教近江文教がある。
泉(いずみ)町
昭和時代
中沢村の東、国友村の南に位置。
寛永石高帳によれば高374石余彦根藩領。寛文4年(1664年)の彦根領分高帳によると定免五ツ四分。元禄8年大河弁天寄進帳によれば、男68、女73、寺社方男一。(中沢村)
橋本村の西、国友村の南西に位置小さな集落で、橋本村と合わせても50戸たらずであったことから戦後合併して泉となった。東には湧水地があり、低温地になっている。このことから泉という名称になったという説がある。
列見(れっけ)町
不明
列見の地名は、太政管の儀式に関係のある古い名称である。列見とは、太政管で2月11日に行なわれる公事で、6位以下の文字官の芸能のできる者を召し、太政以下の者がその器量、容儀を見定める行事である。
長浜の列見は、この行事の費用にあてられた土地であったことからこの名称ができたものと思われる。鎌倉時代の記録にも、「列見の料米ハ近江国細江庄ヨリ」とみえ存在していた当時の荘園の名称である。
(最終更新日 : 1997/09/16)
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