(1)鉄砲の伝来 天文12年(1543)の出来事!
鉄砲は種子島に来航したポルトガル船員よって、持たらされた。それ以降、国内でも生産されるようになり、近江の国友(現長浜市国友町)もそうした生産地の一つとして、発展過程をたどることになる。
種子島の人がポルトガル人から手に入れた鉄砲が、 島津公を経て将軍に献上されると将軍はとても興を示し、家臣に鉄砲づくりの鍛冶を探させた。そして見いだされたのが、刀鍛冶として名をはせて いた国友鉄匠たちだったのである。 |
(2)国友鉄砲の発展
- 天正3年(1575)・長篠の戦い
織田信長の鉄砲隊によって、千挺とも三千挺ともいわれる大量の鉄砲が使われた。このころ秀吉が長浜城を築き、国友もおさめていたから、長篠の戦いで国友鉄砲が用いられたとも考えられる。
- 慶長5年(1600)・関ヶ原の戦い
湖北をおさめるようになった石田三成は、国友の鉄砲づくりを勧める。そして、関ヶ原の戦いでは家康にも使われ、この戦いに勝った家康の手中に、完全に入れられる。このころ幕府から注文がふえ、国友鉄砲は栄えることになる。
そして最も栄えたのが、家康が大阪城を攻める、大阪の陣のころまでの期間だった。
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(3)国友鉄砲の技
鉄砲が完成するまでには、大きく4つの工程がある。
- 銃身をつくる。最も重要な銃身は、巻張という方法で作られた。この巻張により、精巧で命中率の高い巣中を作り出すことができた。
- 銃床をつける。銃床には白樫が多く使われた。
- カラクリをつける。カラクリとは、火縄式点火装置のこと。このカラクリに用いられたバネもすぐれたものだった。完成。鉄砲には、それぞれに製作者の銘が刻まれている。これは、高い技術を持つ鍛冶たちの表れでしょう。
- 完成。
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(4)国友鉄砲のその後
世の中が平和になった元禄のころから、幕府の注文もだんだんと減り、鉄砲鍛冶たちの仕事も少なくなった。それに鉄砲づくりは家内工業だったため、大きな発展もなかった。
しかし、国友はこれくらいではめげなかった・・・・・・。
銃身にほどこされた象がんの技術は、曳山の飾り金具や仏具などを生み出した。現在残る飾り金具から、その技術の高さを知ることができる。また、江戸時代後期、化政文化が栄えるとともに花火も全国的に盛んになる。そして、火薬の製造、調合技術は花火づくりいかされていった。
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私の感想
時代と共に生まれ、時代と共に散っていった国友鉄砲鍛冶たち。このパンフレットを作っているとき、この鍛冶たちはどんな思いで、鉄砲を作っていたんだろうと思いました。しょせん、鉄砲は凶器。相手を殺すための道具です。それをわかっていながら、どんな思いで作り続けたのでしょうか。それは、今になっては誰にもわかりません。
しかし、私はこう思っています。
「自分たちが作った鉄砲が、いつかきっと平和な時代を切り開く。」
と、信じて作り続けていたと思います。
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