長浜市立北中学校 国語科 3年生 表現「パンフレットを作ろう」



ABOUT THE 浜ちりめん

担当者飯田





浜 縮 緬 に つ い て
Q,浜縮緬の前は何をつくっていたか?
A,長浜の北にある東浅井群難波では田畑で仕事をしていたが姉川の堤防に近かったため毎年洪水の被害におそわれて一面田畑は水につかってしまうので収穫が全くできない年もあったが、唯一桑の葉の緑は水に強いので、農村では畑に桑がたくさん栽培されていて近世初期からすでに養蚕が盛んで縮緬の原料である生糸の産地であった。

Q, 縮緬はいつ長浜に伝えられたか?
A,それは,宝暦2年に長浜の北,姉川右岸の彦根藩領難波村の人,中村 林介
乾 庄九郎により藩の許しを得て丹後の国(京都府)宮頭の商人、庄右衛門から丹後縮緬の織り方を習い創り始め、村人に織らせて浜縮緬を作ったと資料で記されている。
ー 浜縮緬のもとは丹後縮緬だった!ー

年貢縮緬帳

Q,はまちりめんはどのように発達していったの?
 A、江戸時代の元禄文化のころ京都には長浜などの生糸を取り引きする問屋が11軒もあった。そこへ縮緬の本場,丹後機業の技術が宮津の商人によって持ってこられて,難波村(びわ町)を中心として縮緬の製織が農家の副業的な,家内工業(室内でする仕事)としてはじめられ,京都で売り出されたが,浜縮緬は京都でつくられたのではないもの(地方産反物)の京都進出は己の独占権をおびやかすものと思い西陣の織り屋が京都での販売の禁止を町奉行に訴え出たため京都での販売は次々に終わっていった。これに対して中村林介・乾庄九郎は宝暦5年(1755)に藩に訴え、その後同人達などの彦根藩の御用達商人(今で言う郵便配達する人)であった近江屋喜兵衛という人により宝暦の3年11月になってやっと売ってよいことになったけれど、以前京都での販売を禁止した西陣の反対を避けるために浜縮緬は彦根藩の年貢縮緬ということで京都に売られた(彦根藩がなぜ京都に年貢を納めてたか知らない)。この様に浜縮緬は彦根藩の重要な産物の一つになった。彦根でも浜縮緬が作られ、長浜では作られた縮緬の検査をして、検査代などをもらっていた。このようなことがあって、江戸時代の終り頃では国の貿易品の一つとして、ばく大の縮緬を織るほどまでになった。


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